<ベストセラー本のいかがわしさ>
本を読んでみて、一番面白くないのが「超」のつくベストセラー本だ。時々、二百万部、三百万部と爆発的に売り上げをのばす本が出現するけれども、これらを読んだ後で、必ずといっていいほど失望する。日本国内で出版される本だけに限らない、このことは、アメリカでベストセラーになった本についてもいえる。それどころか読んでつまらないといったら、アメリカでベストセラーになった本が一番かも知れない。
こういうことが続くので、今では売り上げ順位が第一位第二位になった本は敬遠して読まないようになった。
良書が多いのは、売り上げ順位が7、8位で、販売部数10万前後といったところに位置する本である。本に対する目利きが好んで読む本は、このあたりに集中しているらしいのだ。
超ベストセラー本が出現するのは、どうしてだろうか?
本が二百万部、三百万部というような売れ行きを示すのは、これまで本を読まなかった人々が購入するからなのだ(「これまで本を読まなかった階層」には、一流大学を卒業したエリート官僚なども入っている。学校秀才の多くは、勉強の妨げになるという理由で教科書以外の本をほとんど読まない。昨日の国会で、中川昭一財務相が財政演説のさいちゅうに、「渦中(かちゅう)」という漢字を「うずちゅう」と読んで失笑を買っていた。彼は東大法学部を出た秀才なのだが、あまり本を読んでいないのである)。
読書習慣のない人々には、社会によって刷り込まれた価値観を無批判に受け入れている人々が多い。だから、こういう人々が読む本は、どうしても既成の価値観を補強するようなものになる。まれに既成の価値観をひっくり返すような一見過激な本がベストセラーになることもあるけれども、それは一種の口直しとして読まれるだけで、大衆の価値観そのものを抹殺するような破壊力を持っていないのが通例である。
かくて日本で爆発的に売れる本は、「泣いて下さい、泣かせます」式の日本的人情噺を基本にする小説だったり、集団主義的社会における人間のあり方を説く礼節本だったりする。これが、アメリカになると企業社会やハリウッドでの成功物語になる。これらは既にパターン化されて、散々耳に馴染んでいるものだから、読んでみても何の発見もないのだ。
こう書くと、本を読まない「大衆」を小馬鹿にしているように見えるかもしれない。だが、超ベストセラー本の過半は実際にお粗末なのである。このことは、これらの本が4、5年もするとすっかり忘れ去られることでもわかる。明治以後、超ベストセラー本で今も残っているのは、福沢諭吉の「学問のすすめ」や漱石の「吾輩は猫である」などに限られ、それ以外はすっかり姿を消している。
同じようなことは、テレビについてもいえる。
ある調査会社が、中高生を対象にテレビと成績の関係を調べたことがある。成績のいい生徒は広く色々の番組を見ているのに反し、成績不振の生徒は特定の人気番組だけを視聴しているという結果が出ていた。
超ベストセラー本もTVの人気番組も、多数の読者や視聴者の価値観にあわせて作られているから得るところが少ないのだ。
──お察しの通り、こうした大衆蔑視とも取られかねないことを書いてきたのも、人気の高すぎる政治家の危うさを指摘するためだ。現在では史上最低の評価を受けているブッシュ前大統領も、「テロとの戦争」をスローガンにイラク戦争に乗り出した頃は空前の人気を誇っていた。構造改革路線で格差社会を作り出した小泉純一郎の人気も異常に高かった。私も大衆の一員だから、当初は小泉元首相を高く評価して、自分のHPに彼を賛美する書き込みをしたことがある(自戒のためにその記事を削除しないで今も残している https://amidado.jpn.org/kaze/exp/koizumi.html)
大衆は、長期的な観点から見れば聡明だが、短期的には常に間違いを犯すものなのだ。それは、私たちが、個人として日々過ちを犯し、時を経て自身の錯誤を悟るのと同じなのである。