(裏庭のジャガイモ畑)
<「伴侶の死」を書いた知性派妻(その2)>
昭和25年に、加藤淑裕(25歳)と加藤恭子(20歳)は結婚した。この時、夫は成蹊高校の教師になったばかりで、妻の恭子は早稲田大学に入学したところだった。この夫婦は、恭子が大学を卒業するのを待って、三年後の昭和28年に、アメリカに留学している。昭和28年といえば、日本はまだ貧しく留学費用を調達するのは容易なことではなかった。
二人が入学したのは、カリフォルニア大学の大学院で、一年分の授業料は二人合わせて800ドルだった。このほかにも渡航費用が必要で、加藤淑裕の分は彼の父親が払ってくれたが、恭子は自分の費用まで淑裕の父に頼む訳にはいかなかった。それで恭子も自分の実家に頼むことになったが、いざとなると気が引けたので、嫁入り道具として持参した衣類などを売り払って費用を作った。恭子は、以上の経過報告に続けて注目すべき一行を書き加えている。
「(その金の)ほとんどが淑裕の飲代に消えてしまい、結局は親の世話になった」
加藤淑裕は、妻が彼女の分の渡航費用にと差し出した金を勝手に流用して、飲代にしてしまったのだ。それで、恭子は結局実家から金を出して貰うことになる。お坊ちゃん育ちの淑裕は、こうした自分勝手な行動でその後も恭子を悩ますことになる。
大学の授業料や渡航費用を払ってしまうと、二人の手には50ドルの金しか残っていなかったから、彼らは大学の所在地バークレーでアルバイトをしながら、学業を続けることになった。淑裕は皿洗い、恭子は通いのメイドをすることになったのである。
アルバイト頼りの二人にとって、長い夏休みが稼ぎ時だった。大学が休みになると、淑裕は、「ブランケットかつぎ」と呼ばれる季節労働者になって田舎の果樹園に出かけ、恭子は住み込みのメイドになってアメリカ人の家庭に泊まり込んだ。夏休みが終わって、夫妻が再会すると、恭子は280ドルを貯めていたのに、「ブランケットかつぎ」で多額の収入を得ていたはずの淑裕は90ドルを財布に残しているだけだった。夫婦合わせて、280ドル。これでは、二人が支払わなければならぬ秋の学期の授業料400ドルにもならない。淑裕は稼いだ金のほぼ全部を酒に使ってしまっていたのだ。
窮地に立っている二人を救うために、淑裕の父がかなり多額の金を送ってくれた。本来なら、家計のやりくりで苦労している恭子に金を渡すべきところだったが、淑裕はサンフランシスコに出かけて女の子たちにシャンパンをおごるなどして、その金をすっかり使い果たしてしまった。この間の経緯を見ていたサンフランシスコ在住の友人渡辺格夫妻は、こういって恭子を慰めている。
渡辺格夫人「でも、(淑裕さんは)あとでは気の毒なほどしょげてしまってたわ」
渡辺格「悪いことをしたって、自殺しかねまじき雰囲気でね。それで今度はこっちが心配してしまった」
―――叔母の語るところによれば、淑裕は人に対する好き嫌いはあったが、「女の子以上によく気がつく親切な男」で、「困っている人を見ると、自分はどうなってもいいからと、よく尽くしていた」という。
しかし、その彼が家では勝手気ままな亭主関白だったのである。
淑裕は妻の恭子がいくら注意しても、懇願しても、不摂生な生活を改めなかった。彼は酒なしでは過ごせない男だったが、その酒も食べ物を口にしないで酒だけをあおるという飲み方だった。タバコは、一日に80本。偏食で野菜・果物・海草類は食べない。そして徹底した医者嫌いで、研究所の定期検診をさぼり、胃潰瘍で苦しみながら病院には一度も行ったことがなかった。
昭和63年、淑裕63歳のときに長年の不摂生が、「食道癌」という結果になってあらわれた。はじめて入院した病院で調べて貰うと、食道癌はすでに25センチにもなっていて、手術は不可能だった。恭子は担当医から淑裕の余命は、一ヶ月か一ヶ月半と宣告された。
担当医師から、患者に癌であることを告知するかどうか問われたときの自身について、恭子は以下のように書いている。
<だが、その瞬間の、私のとっさの反応は、
「いいえ、先生、主人にはどうぞおっしゃらないで下さい」
だった。その理由として、主人はひどく弱いところがあるし、問題に真正面から取り組むよりは避ける方を好むし、状況判断も甘いところがある。治るものならともかく、不治なら告知しないでいただきたいというようなことをのべたと思う>
恭子は結婚生活38年の経験で、夫の性格についていささかの幻想も抱いていなかった。下手に癌を告知したら、たちまち夫がダメになることを察知していたのだ。
余命僅かになっても、淑裕は相変わらずわがままだった。淑裕と恭子が病室で交わした最後の会話は、次のようなものだった。
<夕碁、病室の電気を消し、カーテンを引いて、私は暗い一隅に腰を下ろしていた。
「眠りたいから、帰ってくれ」
しばらくして、横になっている淑裕が言った。
「どうぞお休みになって。ここにいますから」
と言ったのだが、
「お前がそこにいると、気になって眠れない。帰ってくれ」
と淑裕は強い調子で言った。>
普段、ひとりで酒を飲みながらテレビやオペラを聞くことが好きだった彼は、妻や娘が部屋に入ってくると、イヤな顔をすることがあった。生きるか死ぬかの瀬戸際になっても、彼は看病する妻をうるさがるのである。
加藤淑裕は、友人たちに妻のことを、「あのバカが」とか、「あいつはバカだから」としょっちゅう口にしていたという。それを聞いて、友人たちは、「加藤は外では決して威張らない男だから、その分、家の中で威張っていたのではないか」と思った。
彼が後輩や弟子に威張らなかったことは事実で、淑裕は研究室では弟子たちに自分のことを「先生」とは呼ばせず、「加藤さん」と言わせていた。これは誰の目にも異様に映り、淑裕は謎めいた不可解な人物と思われていたのだ。
恭子が夫の指導を受けていた弟子たちに、「淑裕はどんな人間だったか」と尋ねると、彼女は彼らから逆に反問されている。
「加藤先生は、本当に分からない人でしたね。でも、奥さんは分かっていらしったんでしょう?」
「いえ、私だってわからないのよ。だからこうして皆さんにうかがっているんじゃありませんか」
難解な人間とされていた加藤淑裕の性格を、友人の渡辺格だけはハッキリとらえていた。彼は淑裕の性格が分かりにくいのは、「建設しようとしては壊すというような自己破滅型なところが彼にあった」からだと言っている。渡辺格は、言う。
「彼は精神構造が不安定だったね。ちょっとしたことがあると、わりに弱い。もっともっと自信をもってもよかったのに、それがなくて、フラストレーションの結果いろいろ考え、それから立ち上がるということを繰返すようなところがあった。他人にわかってほしいけれど、自分では働きかけない反面、俗人にはわかるはずはないと思っている。矛盾したものを抱えていて、本質的には暗いよね」
「酒の飲み方がよくなかったね。酒によって分裂的傾向が出てきたもの。楽しんで飲む酒ではない」
しかし妻の恭子は、そんなことを百も承知だったのである。彼女が夫の死後、一年かけて淑裕の人間性を探求する旅に出たのは、愛する息子を失った母親と同じ気持ちからだった。恭子は誰よりも深く淑裕という人間について知っており、今更、友人や弟子たちの証言を聞く必要はなかった。死んだ息子のことを知り尽くしている母親は、今も生きている息子の友人たちに会い、一緒に息子の思い出話をしていると、友人たちのなかに息子の面影を見ることが出来たのである。恭子は、「彼の過去へ遡ること」は、「彼の、そして私たちの過去に向かって旅に出ること」だと書いている。
恭子が、わがままだった夫をまるで母親のような眼で眺めていたことは、彼女が「甘える夫」に関する人々の評言をいくつも採録していることからも分かる。
「やさしい人、これは誰にでもやさしい人でした。でも同時に甘えの強い人でした。ある特定の人たちにしか甘えず、その人たちにはぐじゃぐじゃに甘えるところがあるんですね」
「加藤さんはどこかで誰かに甘えなければ生きていけないタイプの方ですものね」
夫は「母なるもの」を求めていた。それを知っていたから、妻は意識的に母の役割を演じていたのである。恭子は言う。
「”母”の存在の必要性は彼の子ども時代からあって、それが結局は私が無意識に演じようと努めた役割でもあった」
恭子は、母の役割を演じるために全力を尽くしたが、過去を顧みて深淵を覗きこむような想いをすることもあった。彼女は、夫の生き方を眺めて、「この人は生への執着と併行して、死への誘惑を背中合わせに持っている」と感じていた。夫がいくら注意しても不摂生な生活を改めなかったり、自分の体を自虐的にいためつけて研究に打ち込んでいるのは、死にたいからではないか。とすれば、彼女が夫のために努力したことは、彼の「死へのプログラム」を援助したことになるのではないか。
彼女はこの本の末尾に、恐るべき数行を記している。
<(一体、私は何をしてきたというのだろう?)
(私の人生とは、何だったのか?)
五十代に入ってから、こういう疑問を口にする女性の友人が周囲に増えた。そのたびに
「そんなことは、決して言ってはいけないの。人間として、口にすべきではないのよ、そ んなことは」
などと強くたしなめてきた私だったが、今は呆然と同じ問いを繰返して・・・・>