甘口辛口

「心」(夏目漱石)に見る同性愛(その2)

2009/7/26(日) 午後 5:39

<「心」(夏目漱石)に見る同性愛その2)>


ここで事実関係に戻って、漱石と寺田寅彦の関係を再考してみよう。

寺田が、漱石の書斎に入ってきて原稿執筆中の漱石の横で寝ころんだり、あくびをしたりしたという挿話は、同性愛関係にある師弟の所作と見ることが出来るし、そして又、父子の間に見られる遠慮ない行動とも解釈できる。「心」は、同性愛小説ではないかという先入観を離れて、この挿話を虚心に眺めると、寺田寅彦の行動は漱石の父性に甘えた寺田の「子供返り」した行為に見えてくるのである。

気難しいと見られていた漱石が、弟子たちに対して父親のような思いやりを示していたという話は実に多い。だから、森田草平はそれまで誰にもひた隠しにしてきた自分の秘密を漱石にだけは打ち明けている。森田は特殊部落の出身だったのである。漱石は暖かな態度でその告白を聞き、そんなことは気にするなと激励したので、森田草平は勇気を出してこの事実をあからさまに書いた自伝を発表し、文壇に認められたといわれている。

芥川龍之介も、漱石の父性に触れた一人だった。彼は、漱石には強い「人格的マグネティズム」があったといっている。周囲の人間を、あたかも磁石が鉄片を引きつけるように惹きつける力を持っていたというのである。この磁力は、男性としての性的魅力ではなく父性の魅力だったのではなかろうか。

現代人の感覚からすると、代助が友人のために三千代への愛を諦めたり、「先生」が奥さんにではなく「私」に遺書を残しておのれの罪を打ち明けている点に釈然としないものを感じる。男同士の友情を、誇張しすぎていはしないかと思うからだ。しかし明治の青年たちは、確かに友情に篤かったのである。

漱石は都落ちして松山の中学校教師になったとき、借りている部屋のいい方を正岡子規に提供して、自分は狭い部屋に引っ込んでいたという。正岡子規が、弟子たちを集めて運座を開くときの便をはかってのことだった。友達のためにあえて貧乏籤を引くというのは、当然のことだったのだ。

さて、これからまた本題に戻る。

私が「先生」の奥さんに対する愛を疑うのは、奥さんを残して自殺したという、そのことについてなのだ。「それから」の代助は、兄を失って孤独になった三千代が自分を頼りにしていることを知りながら、彼女を平岡に譲ってしまった。「心」の「先生」は、自分が死んでしまえば奥さんが天涯孤独の身になることを承知で自殺している。奥さんへの愛が少しでもあれば、彼女のために少しでも長く生きていたいと思う筈である。

「先生」は、「K」のために物心両面の犠牲を払うことを惜しまなかった。彼は「K」を心から尊敬し、彼に兄事していたからだ。だが、奥さんは、下手くそな琴を弾いたり、見よがしに高笑いしたりして、あまり尊敬すべき女性として描かれていない。「先生」が奥さんを残して自殺したのには、こういう事情があるのだろうか。

遠い昔のことになるけれども、市川崑の「心」という映画を地元の映画館で見ていたら、「先生」が「K」の自殺に気づく場面が描かれていた。夜中に目覚めた「先生」は、「K」の部屋との境になっている襖が開いていることを不思議に思って隣室を覗き、そこで「K」が頸動脈を掻き切って死んでいるのを発見するのである。

家に戻って、漱石の「心」を取り出して読んで見ると、原作も映画で見たとおりになっていた。大岡昇平もこの部分に注目して、「K」が境の襖を開けたまま自殺したのは、「先生」を最初の発見者にするためだろうと言っている。だが、私は原作を読み直した後で、「K」は、自殺を決行する前に「先生」に別れを告げるため隣室を訪れたのではないかと想像した。

「先生」は叔父一家と絶縁し故郷と縁を切って上京し、最早どこにも係累のない身になっている。養家からも実家からも勘当された「K」は、「先生」以外に親しい人間は一人もいなかった。「先生」と「K」、二人は孤独であり、心を分かち合う者としてお互いしかいなかったのだ。だから「K」にとっては、死に先立って別れを告げるべき相手としては、「先生」しかいなかったのである。

その頃、「K」の気持ちはひどく弱くなって、自殺念慮に取り付かれていた。「先生」の裏切りにあっても、相手に怒りや恨みを感じていたとは思われない。「先生」もお嬢さんを愛していることを知って、今更のように自らの迂闊を悟ったに違いない。彼は、お嬢さんを失ったことで自分をこの世に引き留めていたものが一切なくなったと感じ、これでもう思い残すことはないと死を決断したのである。

・・・・「K」は「先生」の寝顔をしばらく眺め、「君は元気で生きていてくれ」と呟いて自室に戻った。襖を閉じてしまえば、完全な孤独のうちに死ぬことになる。心の弱っていた彼は、唯一の友である「先生」を間近に感じながら死にたいと思った。それで、あえて襖を開けたままにして刃を取り上げた・・・・・。

――「心」を読み終わった読者の胸には、後に一人残された奥さんはどうなるのか、という思いが残る。市川崑の映画の幕切れを見た観客は、特にその思いを強くする。

生前の「先生」は家を空けなければならないときに、一人で自宅に残る奥さんを心配して「私」に自宅に来て泊まるように頼んでいた。「私」もそのことを思い出して、奥さんの気持ちが落ち着くまで、暫く「先生」の家に泊まり込んで奥さんを支えていくべきではないかと考える。

「私」がそのことを提案すると、奥さんも大変喜んで、私もそうお願いしようと思っていたところだと答える。

私はある女流作家が、「明暗」の続編を書いたときに、続編を書くなら「心」にすべきではなかったか、と思った。そして、彼女に代わっておおよそ次のような筋立てを考えてみたのだ。

「私」は故郷の実父の葬式を済ませた後で上京し、間借り人のような格好で「先生」の家で暮らすことになる。最初は、少なくとも大学を卒業したら辞去するつもりだったが、「私」は結局大学を卒業して、就職してからも、「先生」の家に居座り続けることになる。

「先生」は遺書の中で、奥さんには自殺と分からない方法で死ぬ積もりだと書いていた。「先生」は最後まで奥さんをだまし通すつもりでいたのだ。

しかし、「私」は考え始める。奥さんは「先生」の思い出を胸に、死ぬまで独身を通すつもりでいる。「先生」に死なれ、悲しみに沈んでいるために、ますます美しくなった奥さんのところには、再婚話がいくつも来ているらしい。奥さんは、何時までも「先生」の思い出にしがみついていないで、再婚に踏み切るべきではなかろうか。そのためには、「先生」の死の真相を奥さんに知らせなければならない。

奥さんも「先生」の死に方が普通でないことを漠然と感じているようだ。だが、それをハッキリさせることを恐れている――

「心」の続編は、「先生」の秘密をめぐって「私」と奥さんが駆け引きするシリアスな作品にすることも出来るし、二人がやがて結ばれるロマンス小説にすることも出来る。私は老人で、もう、その元気はないが、誰かが「心」の続編を書いてくれないかと期待しているのである。