(NHKテレビより:戸塚教授の家)
<戸塚洋二のブログ>
癌で死んだ戸塚洋二教授については、以前に立花隆が「文藝春秋」誌に書いた記事で知っていた。戸塚は、死の直前まで自らのガンの進行状況を冷静に記録し続けた実験物理学者なのである。NHKが、この戸塚洋二の死に至るまでの行動をドキュメンタリー風にまとめて、「物理学者ガンを見つめる――戸塚洋二最後の挑戦」と題して放映したところ、視聴者に多くの感動を与えたので、NHKはこの番組を再放送をしている。
私はこの再放送番組の方を録画しておいて、実は先刻再生して見終わったところだ。そして印象が薄れないうちに記事にしておこうと思って、早速キーボードに向かっているところである。
先ず印象に残ったのは、ノーベル賞確実といわれていた世界的な学者だったにもかかわらず、東大特別名誉教授戸塚洋二が千葉県の小さな住宅に住み、夫人が丹精込めて草花を育てている庭も教授自身の表現によれば、「猫の額」ほどの広さしかないことだった。欧米の学者の屋敷にくらべると、その住居はあまりにもつつまし過ぎるのである。
戸塚教授が、東大生だった頃に空手部に所属し、空手6段だったということも初耳だったし、彼がクラシック音楽を愛好し、翻訳物のミステリーを読んでいたこと(彼の書架にミステリーが何冊も並んでいた)、そしてブログを開設していたことなどにも親近感を感じた。
教授が亡くなってから、夫人は仏壇を家に備えていない。整理ダンスのようなものの上に、戸塚の写真を飾り、毎朝、その前に茶を供えているだけなのだ。この辺も、簡素な生活を愛した夫妻の日常が偲ばれて、好感が持てた。
しかし、何といっても強く印象に残ったのは、戸塚洋二が「宇宙の死」と自己の死を重ね合わせて、安心を得ようとしていたことだった。
天文学の標準的理論によれば、137億年前に生まれたニュートリノは極めて微小で質量を持たないとされていたそうである。ニュートリノが質量を持たないとしたら、宇宙は今後も無限に膨張し続けると予想されるが、質量があるということになれば、引力が生まれ、それが一定数以上になると宇宙は縮小しはじめ、最後には時間も空間もない無の世界に戻ってしまうらしい。つまり、「宇宙の死」が到来するのだ。
「宇宙の死」と自らの死を重ね合わせることによって安心が得られたという教授の言葉が何を意味するか不明だが、彼がある種の安心を得ていたことは事実かも知れない。戸塚と同じ大腸ガンで苦しんでいる患者が、どうしたら戸塚のように平静でいられるのかとメールで質問してきたとき、彼は淡々とブログ上で次のように答えている。大意を要約するとこうなる。
「私は、見る、読む、聞く、書くということに、これまでより、もっと注意を払うようにしています。見るときには少し凝視するようにする、読むときにはちょっと遅く読む、聞くときには相手に以前より注意を払う、書くときにはよい文章になるように努力する、といったふうに」
実にいい忠告だと思う。これは、型にはまった紋切り型の助言でもないし、新しい観点からする哲学的な教訓でもない。彼は、日々の生活を少しだけ心を込めてやるようにしたら、以前よりも落ち着きが得られたという自身の体験を語っているのだ。
戸塚は、人間も宇宙も、その死によって無に帰すると信じていたのだが、無とは一体何だろうか。ニュートリノが、その無から生まれ出たとするなら、その無は空っぽの死んだ無ではなくて、生産力を持った「生ける無」でなければならない。とすれば、宇宙の根源、存在の母胎は、この無だということになる。西田哲学は、すべての存在がそこにあるのは絶対無(すなわち生ける無)の自己限定によるといっている。
人は二層の意識を持ち、二つの世界を見ている。表層の意識は、主観的な意識であり、これが見る世界は私的な世界、主観によって歪められた利己的な世界だ。その意識の背後にある深層の意識が見るのは、事実そのままの世界であり、愛の世界なのだ。
事実そのままを見る世界に、なぜ愛が隅々まで行き渡っているかと言えば、事実を見るということは、そのもの全体を受け入れることだからだ。別の言い方をすれば、対象を愛の眼で包み込むように見るときにのみ、事実が見えてくるのである。だから、事実の世界を見るとは、世界全体を愛の眼で見ることを意味する。われわれは、主観的には敵・味方を区別し、敵を排除している。だが、どんなに偏狭な人間でも、人類全体、世界全体を愛情で包み、存在するものすべてを仲間と見るもう一つの意識を持っている。
その意識は、人間が宇宙の一部であることに基づく宇宙意識だとするなら、これの母胎は宇宙だ。だが、その宇宙が「生ける無」の産物だとしたら、宇宙意識の源泉は宇宙にあるのではなく「生ける無」にあることになる。
人間も宇宙も死ぬことによって無に帰するが、その無は死せる無ではなく、「生ける無」なのである。としたら、死は恐るるに足りないのである。