(伊那谷の民家)
<永山則夫の周辺(その2)>
永山則夫の兄姉妹が、どのような人生をたどったのかを佐木隆三の「死刑囚 永山則夫」に依拠して略述してみよう。
長姉の精神病は、破瓜病という名前の通り、思春期になって発症した。最初の発作は、パンツだけの裸身で家の外に飛び出すというもので、彼女は精神病院に収容された。やがて病院を退院して家に戻って来たが、「荷物を盗まれたら大変だ」とがらくたを風呂敷に包んで背負い、夜中に町内を歩き回ったり、他人の敷地内に毛布を敷いて寝たり、表の電柱にホースで一晩中水をかけ続けたりして症状が完全に消えることはなかった。しかし、彼女は他人に危害を加えるようなことはなかった。
長兄には前科があった。彼は住宅販売会社の支店長まで昇進したが、詐欺事件で逮捕され、懲役十ヶ月の刑を宣告されて宇都宮刑務所で服役している。
小・中学校を通してトップの成績を維持したという次兄は、板柳中学校を卒業後東京の機械製作会社に就職している。私立高校の定時制を卒業した彼は、長兄に誘われて宇都宮市に移り、住宅販売会社のセールスマンになった。間もなく結婚したが、一児をもうけた後に妻との関係が悪化し、協議離婚をしている。子供は妻が引き取ったので、身軽になった彼は、単身上京しトラック運転手になり、喫茶店で働く女性とアパートで同棲する。すると、逮捕される前の永山則夫がやってきて、その四畳半のアパートに入り浸るようになるのだ。この兄にも軽い前科があり、後にガンで亡くなっている。
三兄も、次兄・三姉と同様に学校の成績はよかった。それに子供の頃から忍耐強く明朗快活で、スポーツでも活躍したから学校での評判も上々だった。彼は近所の人々からも愛されていた。上京後は、定時制高校を卒業して中央大学第二法学部に合格している。しかし、学資の工面がつかなかった為、合格しただけで大学には通学していない。彼は大手出版社の名古屋営業所に勤務して課長補佐になり、二十名の部下を使う身になったけれども、その恵まれた地位を自分から捨て、独立して事業を始めている。
彼は板柳町にいた頃、則夫に暴力を振るったことがなかった。そのため、弟は彼を尊敬し三兄のような人生を送りたいと思っていた。逮捕された則夫は、取調官から、「誰に一番会いたいか」と問われて三兄の名前を挙げている。だが、三兄は事業に失敗し、その人生は必ずしも成功とは言い難かった。
次姉については、青森県弘前市の男性と結婚したという記述があるだけでハッキリしないが、学校の成績がよかった三姉のことは、「死刑囚 永山則夫」のなかに、かなり詳しく書かれている。彼女は、板柳中学校卒業後、地元の美容院に住み込み、通信教育で美容師の資格を取ってから長兄を頼って上京する。そして新宿の美容院で働いているうちに木型職人と結婚、一児をもうけている。が、「性格の不一致」のために離婚(子供は相手が引き取っている)。離婚後は、東京郊外のマージャン荘の運営を任され、今は安定した生活を送っているという。
妹と姪の消息については、佐木隆三は僅かしか触れていない。そのため、彼女らの人生を系統的にたどることは不可能になっている。
佐木は、妹が板柳中学校三年生の一学期に名古屋へ移り、家内手工業の縫製を手伝いながら中学を卒業したと書いている。そして、その後も住み込みで働いていたと記した後で、突然、彼女は東京で子供を託児所に預けてホステスをしていると記し、本文の末尾のあたりになると、「現在は生活保護を受けており、精神科医の治療を必要としている」と書いているのだ。姪については、佐木隆三は関東の温泉場で芸者置屋にいると書いているだけである。
では、永山則夫の父親は、どうなているだろうか。
父親は妻が三人の子供を連れて青森の実家に帰ってしまうと、残された四人の子供が酷寒の網走で餓死寸前の生活をしているのを尻目に、姿を消して行方不明になっている。福祉事務所の仲介で四人の子供が母親のもとに移ってからも、父の消息は不明のままだった。が、ある日、青森県板柳町の妻のところに現れて、家族との同居を要求したことがある。この時は、長兄と次兄が父を追い払って家に入れなかった。父は、それきり妻や子供たちの前から姿を消してしまう。
父親の消息が知れたのは、則夫が中学一年の時だった。岐阜県の警察から母のもとに連絡があり、「あんたの夫は駅で行き倒れで死んだ」と知らせてきたのだ。母は岐阜県まで出かけて遺骨を引き取ってきた。父は、バクチで身を持ち崩した男がどんな末路をたどることになるかという実例を示していた。これが子供たちのその後に、いろいろな形で影響を与えるのである。
こういう破滅型の父親を持った家族は、その後どうなるだろうか。子供たちは、父を反面教師として、父親とは反対の生き方をするようになるのだ。アル中の父を持った子供は、酒を嫌悪するようになるし、女道楽で身を持ち崩した父親の息子は、石部金吉の堅物になるのだ。
しかし、それには条件がある。子供たちが父親とは違った生き方をしようとする時、それを支え、その志向を持ちこたえさせる母親の存在が必要なのだ。野口英世の父親は手に負えない道楽者だったけれども、母親がしっかり者だったから彼は道を踏み外さずにすんだのである。
永山則夫の母親は、人のいい働き者だったが、子供たちに生きる方向を示してやる力はなかった。連続射殺事件の発覚後は、彼女は則夫の話になると、ただ泣くばかりだったという。
永山家の息子も娘も、父を反面教師にしてそれなりの努力はしている。みんな、スタートは順調なのである。このままで行けば順風満帆の人生を送れそうな印象を与えながら、結局は長続きしないで途中で挫折している。則夫の長兄と次兄は成功を目前にして罪を犯し、三兄も大手の出版社で20人の部下を指導する立場まで昇進しながら、会社を辞めている。則夫の姉妹も離婚したり、精神に異常を来したりで、女としての幸福になることが出来なかった。
永山家の子供たちが挫折した背後には、則夫の存在があることは疑いない。しかし、やはり極道者の父が行き倒れで死んだこと、そしてお人好しの母が窮地に立つと男を相手に見苦しい手管を使うのを見ていたことなどが影響していることも又疑いないのである。母は期限の切れた定期券を使ったため賠償金を取られそうになると、駅員を自宅に呼んで酒を振る舞ったりしている。
則夫を含め永山家の子供たちは、家の貧しさに加えて、両親のことでも劣等感を抱いていた。則夫の三人の兄は、その劣等感を過度に補償しようとして能力以上の成功を追い求め失敗した。則夫の精神鑑定を行った専門家も、彼には劣等感に対する過度補償の傾向があると指摘している。
兄たちは劣等感を補償するために金持ちになろうとしたが、則夫は獄中で全共闘系の学生らと交流して革命思想に目覚め、劣等感を新しい革命理論の創始者たることで補償しようとした。そして、次第に誇大妄想に囚われて行くのである。
永山則夫は、自らを史上初めてファシズムを科学的に解明し、論理学、犯罪学、数量学(数学を発展させた学問)、文語学(文学と語学を合わせた学問)を科学にまで高めた人間だと規定し、裁判所に対して各分野の専門家に彼の創始した理論を鑑定させることを要求している。そうすれば、彼が天才であることが判明し、「永山則夫を死刑にすることは全人類にとって損失であることが判明するだろう」と強調している。
永山則夫は二審で無期懲役になったが、三審の最高裁で差し戻しになり、四審の裁判で一審の判決通りに死刑が確定する。この四審での最後の陳述で則夫は、こう言い放っている。
「マルクス主義は古い科学であり、僕の思想はマルクスを超えた。かって無知だったころに、同じ階級の仲間を殺したことは、深く反省しているが、今の僕は殺される理由がない。死刑はファシズムの刑罰であり、学術的な面で人類に役立つ世界に二人といない科学者の僕を、決して当局が殺すことはできない」
この誇大妄想狂のような最終陳述のなかに、永山則夫が置かれていた生育環境の無残なまでの荒廃が感じ取られるのだ。