甘口辛口

「黒い部屋の夫」というブログ(その1)

2009/11/3(火) 午後 6:45

<「黒い部屋の夫」というブログ>


新聞の読書欄を見ていたら、「黒い部屋の夫」という本の紹介をしていた。

題名自体が好奇心をそそる上に、内容がうつ病の夫に苦しむ妻の告白と、その妻に離婚された夫の自殺を題材にしているというのである。これは一年半にわたってブログで公開されていた書き込みを書籍化したもので、ネットで評判だった衝撃のノンフィクションだという。

ただの告白本ではなく、ネットで公開されて話題になっていた体験記だということになれば、別の興味もわいてくる。早速、上下二冊になっているこの本を手に入れ、近来にないスピードで読み終えた。

こちらの予想と違っていたのは、このブログが倒叙式のスタイルで書かれていることだった。上巻の最初のページは、こんな風に書き出されている。

 私の元夫は、私が妊娠した直後にうつ病になりました。
 出産や私の入院を経て六年間、家事育児と仕事、夫との
 闘病に私なりに力を注いだつもりでしたが、力尽きて離
 婚。私は新しい生活と、やがて新しいパートナーを得、
 元夫は自殺しました。

筆者がブログのはじめに、衝撃的な事実を持ち出したのは、一つには客寄せの意図もあったろうけれども、彼女の目的が自分たちの結婚がなぜ悲劇的な結末を迎えたのか、その原因を明らかにしたかったからだ。そして、読者がこのブログに引きつけられて先を読まずにはいられなくなるのも、悲劇の真相を知りたいからなのだ。

自殺した元夫は、妻より10才年長で、離婚歴があった。彼の父親は東証一部上場企業の取締役専務まで上り詰めた「成功者」で、物わかりの良い温厚な人物だった。母親も元夫を溺愛に近いほどの深い愛情で育て、息子の妻である作者に対しても惜しみなく愛情を注いでくれる理想的な姑だった。こういう家庭に長男として生まれた元夫は、良家のぼんぼんの持つ長所と短所を併せ持っていたのだった。優しく善良な人柄を持っている反面、依存的で自己中心的な幼児性を具えていたのだ。

作者(エリと呼ぶことにする)の母親は、元夫の母とは対照的な女だった。エリの父親の方は影が薄く、二人の娘の教育にも口を出さなかったが、家庭内の全権を握っている母親は、エリとエリの姉を厳しく躾けてきた。娘たちに対しては、子供を谷底に蹴落とすライオンのような態度で臨んだのだ。エリはこの母親の下で勉強に励み、「日本で二番目にすごいとされる国立大学」を受験する。だが、不合格になったとき、母はエリを慰めるどころか、「お前の人生は、終わったね」と冷たく言い放ったのである。

母に反発してエリは、家を飛び出し全寮制の高校に進み、大学受験に失敗した後は、二次希望の私立大学に入学している。エリの行動を見ていると、鋼(はがね)のように強い母の影響を受けて、彼女も自我を押し通す芯の強い娘になっている。実家を離れて一人暮らしを始めた彼女は、元夫と同棲する以前にもいろいろな男性と同棲している。


 (元夫と同棲する以前から)付き合う相手とは半同棲状
 態になってしまう私。
 付き合う相手とは四六時中一緒にいたいし、相手の良い
 所悪い所ひつくるめて全部見たいという欲求が大きいの
 だ。そんな付き合いが重かったりウザいと感じて、歴代
 の恋人連は私の元を去って行った。初めて去られる前に
 結婚の話が出たのが元夫だったわけだ。
                 (「黒い部屋の夫」)

エリの母は、娘が男と二年間も同棲していることを知って、そんなふしだらなことは許さない、このまま関係を続けたいなら結婚すべきだと言い張る。だが、元夫の実家では、息子が離婚して未だ間がないのに再婚することには反対だったし、元夫もいずれはエリと結婚するつもりでいたが、今すぐ結婚する気はなかった。だが、結局、エリに押し切られて結婚する。この時、夫は32才、妻は22才だった。

結婚後の夫は、会社の情報処理システムを新しくするための仕事を家に持ち帰って、夜遅くまで起きていた。「俺がいなくなったら、会社はつぶれる」と豪語する夫らしい超人的な働き方をしていたのだ。そのシステム更新の仕事が成功裡に終わったときに、夫は病気で倒れてしまう。発熱、だるさ、腹痛、目眩(めまい)。

最初は、点滴を打ちながら会社に通っていた夫だったが、次第に出社を渋りはじめる。そして朝、エリが夫を起こそうとすると、泣きそうな顔で布団をかぶってしまうようになった。

「イヤだ。行きたくない。・・・・アタマイタイの」

駄々っ子のような言い訳をする夫を見て、エリは思わず呟く。

(この目の前にいる、大きな子供は一体誰?)

こうした状態がいつまでも続くので、エリが付き添って心療内科の診察を受けると、夫は「うつ病」と診断された。

夫は医者から「休職二週間」の診断書を貰って会社を休み、さらに休職を一ヶ月間延長して、ようやく出社する気になった。が、その夫からエリのところにメールが届いた。

「エリちゃん、助けて。帰りたい。帰っていい?」

母親にすがりつくようにしてエリの許可を求める夫に、なんと返事をしたらいいだろうか。帰ってもいいとと答えでもしたら翌日の出社が困難になり、ずるずると休み続けることになりかねない。

そう思ったが、会社より夫の方が大事だと考えて、エリは結局OKの返事をするのだ。その結果、夫が会社に出勤したのは、この日が最後になる。

当時、エリは夫と同じ会社にパートで勤めていたが、出産を控えて休職中だった。そこへ夫が出社しなくなったので、夫婦二人が自宅で一日中顔をつきあわせることになった。こういう状況下で、エリは娘を出産するのである。

夫とエリの最初の衝突は、赤ん坊に飲ませるミルクのことから始まった。

エリは出産前から胆石症で悩まされていた。出産後もその痛みは続き、発作が訪れると痛みをこらえるのに汗だくになり、何をする気もなくなる。その日もエリは激しい痛みに襲われて、布団から起き上がることができないでいた。そこへ泣き出した赤ん坊を抱いて、夫がやってきたのだ。

「赤ちゃんがお腹空いたみたいだけど、おっぱいあげられる?」

エリは授乳は無理だから、ミルクを作ってやってくれと夫に頼んだ。夫は頷いて赤ん坊をエリの隣に寝かせ、ミルクを作るために台所に去った。エリは隣の赤ん坊があまり激しく泣くので、抱き寄せ乳首を含ませてやると、相手は直ぐに吸い付いてくる。

ミルクを作って戻ってきた夫は、赤ん坊がおとなしくなったのを見て、不快そうな表情になった。妻に無駄骨をさせられたと思ったのだ。

 「エリちゃんは俺に甘えている。このままだとエリちゃ
 んは何もしない人になる。俺は今日から、普通に働いて
 る人と同じ時間帯で外出する」

夫は足音荒く台所に戻り、ミルクの瓶を流し台に放り出して外に出て行った。

これが夫婦のバトルの始まりだったのである。

(つづく)