(森の中の裸婦2)
<「黒い部屋の夫」というブログ(その3)>
夫の説得に応じてエリは、義父母の住む街に引っ越すことを決めた。そして、義父がプレゼントしてくれたマンションに入居した。マンションは、失業中の夫婦にはもったいないほど立派なものだった。義父母の家は、そこから歩いて20分ほどの近くにあった。
住まいが決まれば、次は夫婦の職場を探さなければならない。エリはそれに先だって、子供を預ける幼稚園を探しにかかった。義父は子供の幼稚園が決まると、息子に向かって一家を援助する金を増やしてやると言った。
「お前の仕事が決まるまでは、今まで通り20万円援助するよ。いや、幼稚園の費用を加えて毎月25万だな」
脇にいたエリにとって、この話は全くの初耳だった。夫は精神障害者の認定を受けているので、月額に換算して5万円の年金を受領している。義父からの援助を併せると、月に30万円になる。これまで夫は、義父から送金のあることを隠して、エリには食費として月額3万円を渡していただけだったのである。
転居後一ヶ月もたたないうちに、エリの仕事が決まった。マンションからクルマで10分の近くにある製造業の会社が、営業事務担当の女性事務員を求めていたのである。だが、夫の仕事は、なかなか決まらなかった。彼は、携帯電話機を改造してインターネットのオークションにかけるようなことを始めたが、たいした収入にならなかった。妻も子供も出払って一人だけ残されたマンションで身をもてあましていた夫は、金魚の飼育という新しい道楽をはじめた。
「ムスメの情操教育になると思ったんだ」
「本当に安かったんだ。この値段じゃ、ほかでは買えないよ」
といって、夫が飼ってきた水槽は横幅が30センチ程度の比較的小型のものだった。しかし、のめり込んだらまっしぐらの夫は次々に水槽を増やし、多種多様な金魚を飼育し始めた。食卓横のスペースとリビングの出窓にも、それぞれ二つずつ水槽が並び・・・・
最初の水槽は三十センチ幅のものだったが、次のは四十五センチ、その次の二つは六十センチと、容れ物のサイズと比例して中の水量も増えるから、水替えだけでも結構な体力が必要になる。夫にキチンとした日課が出来たのはよかったが、わさわさ増殖する水槽群を見ているとエリの不安も次第に増大する。帰宅するたび、エリは、ダイニングやリビングに転がっている飼育ツールの箱や包み紙、水替えの際にポタポタこぼれたまま放置された床を見て眉をひそめることになるのだ。
何が恐ろしいといって、特売の小型水槽と赤い金魚から始まった夫の趣味が、ほんの数ヶ月で二桁の水槽と三桁に近い魚数を誇るまでに増殖するほど恐ろしいことはなかった。特大の百二十センチ水槽を二つ買い込んでも、まだ増殖の最終地点が見えないのである。
時間とお金と心の全てを注ぎ込んだ夫のクルマいじりも、外での作業が主だったから、まだ救いはあった。自宅で始めた携帯産業も、ほんの数ヶ月で終焉を迎えた。どちらもその当時は 「いい加減にして!」と思っていたが、金魚に比べたらまだまだ可愛いものだったのだ。
金魚のことで頭を悩ましていたエリにとって、それ以上にショックだったのは、夫に借金があることだった。夫があれを欲しい、これも欲しいとグダグダ言うので、エリがうるさくなって、「それなら買えばいいじゃない」と言ったら、夫は、「買えるわけないじゃん。借金あるんだし」と口を滑らしてしまったのだ。ドキッとしてエリが反問したときの様子を、「黒い部屋の夫」から引用してみる。
<「借金までして何に使ったの……」
「ベランダの水槽にヒーター入れたら、電気代が月四万
超しちゃったし」
「それだけじゃ借金にならないでしょう」
「水槽やら金魚やらたくさん買ってたから、なるよ」
「どうやって返すつもりなの」
「ちゃんと計算してるから大丈夫。今、年金は全部返済
に充ててるし」
年金受給者とパート主婦の家庭で水槽に四万円の電気代。
頭の中で必死におさらいをし、計算する。
我が家の月収は、私がパートで十万程度、夫が年金で
五万、義父からの援助で二十五万、総収入は四十万にも
上る。うち、食費、日用品、衣類など、現金での出費は
全て私。住まいは義父に買って貰ったマンションだから、
管理費のみの支払い。夫の口座から落とされていくのは、
子供の幼稚園代(但し延長料は私)、世帯の国民健康保
険料、夫の生命保険料(私のは私が払っていた)、夫の
車の保険料(同じく私のは私が)、ガス水道電気の光熱費、
二人分の国民年金と携帯代。どんなにアバウトに、夫寄
りに見積もっても、夫の口座には毎月十万以上は残るは
ずだった。>
エリが一番聞いておかなければならなかったのは、借金の総額がいくらになるかということだった。だが、彼女は肝心のその質問を怖くて口に出せなかった。
エリは、夫の今後の問題を相談するために、夫に付き添って病院に出かけた。金魚道楽と借金という新たな難題をどう解決したらいいか分からなくなったからだ。最初は夫婦二人で主治医に病人の近況を訴え、それから夫婦別々に医者の前に呼び出された。エリの番が来たとき、主治医は借金問題に関連して彼女にこう告げた。
「旦那さんは、家計を丸投げされているのが辛いと言っていますよ」
これを聞いて、エリの頭に憤怒がカーッと突き上げてきた。夫は銀行の預金通帳をいくつもこしらえる趣味があり、振替の引き落とし先も、転々と変えている。エリには、夫への障害年金や義父の援助資金がどの銀行のどの通帳に振り込まれているか見当がつかないでいるのである。夫は入ってくる金を一手に握り、妻に家計を渡さないと宣言している。だから、3万円の生活費も、毎月夫に頭を下げて出して貰っているのだ。
怒りを抑えて帰宅したエリは、言葉を選んで夫に話しかけた。
「お金の管理、ずっと任せっぱなしなのが負担だったのね? 先生が言ってたよ。それでパパの重荷が減るなら、これからは私が家計を預かろうか」
すると夫はパソコンモニタの前で、俯いたままじっと考え込み、やがて口を開いた。
「……。もう少し落ち着いたらお願いするかも。今はまだ、いい」
夫にそういわれてしまうと、エリにはもうどうしようもなかった。彼女は通帳、カード、印鑑がどこにあるか知らないのである。
転居後半年を過ぎてから、夫はようやく仕事を探してきた。登録派遣の短期作業員の仕事である。派遣先で働いているうちに、会社の若い社長は夫がIT技術者であることを知って、会社のウエブサイトを作ってくれないかと頼んできた。このウエブサイトには、複雑な機能を盛り込まねばならず、専門業者に頼めば高い経費がかかるのである。
社長は夫を正社員にしてくれ、勤務形態も自由に選んでいいといったが、月給は僅かに6万円だった。しかも、会社の仕事が忙しくなると呼び出されて軽作業を命じられ、登録社員の送迎業務などもさせられるのである。
自宅には、夫が仕事で使うパソコン関係の器具が増えていった。家族の人数分のプライベートパソコン本体(つまり三台)、モニタ三台、サーバ用の本体二、三台、ミニサイズのモニタ一台、プリンタがレーザー、インクジェット各一台、スキャナ、カッティングシートカッター、UPSが数台ある。どれだけ電源が必要なんだというほどの、過剰設備で、その多くは夫が自弁で買い揃えたものだった。そのうちどこかから火が出そうな勢いで束ねられた配線群。水槽のポンプ音と共鳴して唸る、低い機械音・・・・
パソコン群に囲まれているうちに、ついエリも自分用のパソコンでゲームをするようになった。そしてゲーム仲間たちとチームを組んで、難攻不落の敵要塞を攻撃するようなことも増えてくる。そのゲーム仲間と電話番号を教え合っていたから、携帯に登録する電話番号も自然に増えてくる。
新年になってからだった。ある金曜日の夜、子供を寝かしつけてエリまで眠ってしまっていたら、寝室のドアを荒々しく開けて、夫が、「ちょっと、こっちに来い」と怒鳴った。夫は怒りに震えている。それが分かったので、エリは起き上がって相手のあとについて行った。パソコンの前の夫が、エリの座るのを待って、また怒鳴った。
「こんな時間に、男から電話があるって、どういうことだ!」
時刻は午前零時を過ぎたところで、確かに非常識な電話だった。だが、それはエリがゲームにログインしたまま眠ってしまったので、彼女のキャラが動き出さないのをいぶかしがったゲーム仲間が、寝込んでしまっているであろう彼女を起こすために携帯を鳴らしたのだった。そういう事情が判明してからも、夫の怒りは収まらなかった。
「何もないのなら、いい。もう、寝ろ。・・・・携帯は、こわしといてやったからな」
翌朝、起きると、夫の姿はなく、キーボードの上に夫の手紙が載っていた。冒頭に「これは忠告です」とあって、エリへの不満が色々書き並べてあり、そのなかにこういう一節があった。
「以上のことが出来るようになるまで、携帯とパソコンは禁止です。
携帯は私が解約しておきます」
(つづく)