<森繁久弥の芸風>
森繁久弥の追悼番組を見た。そして知ったのは、彼が早稲田大学に籍を置いた演劇学生だったということだった。早稲田の演劇学生たちは、卒業後に俳優座や文学座など新劇の劇団に入っていったのに対し、森繁は大衆演劇の世界に飛び込んだのだという。そのお陰で彼は、テレビや映画で喜劇役者として活躍する一方で、シリアスな文芸映画などにも出演し、そのオールラウンドプレイヤーぶりを遺憾なく発揮することになったのである。
私は、生(なま)の森繁久弥を一度だけ見たことがある。
昭和30年代の前半に、母と姉を案内して東京見物に出かけたことがある。母は東京見物をしたことがなかったし、姉と来たら40になろうというのに、まだ一度も東京に出たことがなかった。それで二人は誘い合って東京に出かけることになり、私が案内役を命じられたのである。こちらは肺の摘出手術後、実家で静養して身をもてあましていたので、案内役としては格好な人間と思われたのだ。
東京での最初の日は、「はとバス」に乗って東京めぐりをした。二日目は浅草を見物した後で、国際劇場で「実演と映画」というのを見た。この実演の部に小坂一也、浜村美智子などの歌手と並んで森繁久弥が出演していたのである。
幕が上がって、森繁が小坂一也と一緒に舞台に出てくる。そして森繁が何かしゃべろうとしたら、二階席から女子高校生らしき女の子が、「一也ちゃん」とか、何とか、小坂に声をかけたのだ。二階席の両翼は、舞台の直ぐそばまで張り出ている。女子高生はその突端に陣取って、小坂一也の現れるのを今か今かと待ちかまえていたのだ。
出鼻をくじかれた森繁は、むっとしてその女の子の方を見上げた。
「なんだい、いい加減にしろよ。お客は、あんただけじゃないんだぞ」
「お客様は神様です」と言われていた時代に、彼は舞台の上から客に噛みついたのである。場内はしーんとなった。小坂一也は困ったように下を向いている。森繁もやり過ぎたことに気がついたらしく、女の子から視線を離し、目を足下に落としながら、「この頃の若い者と来たら」とぶつぶつボヤキ始めた。その声は段々小さくなって、最早、観客には聞き取れなくなった。
私の記憶によると、森繁はそのあと、何もしないで楽屋に引っ込んでしまったように思う。それを見ていて、芸人も人気が出てくると、あそこまでわがままに振る舞えるようになるのだなと、感じ入ったことだった。
森繁久弥という人物は、舞台であろうが撮影現場であろうが、地のままで行動するタイプなのだ。それは、彼が不器用なのでほかの俳優のように、役柄に応じて自分を完全に変化させることが出来ないためらしい。三等重役を演じても、夫婦善哉のぐうだら亭主を演じても、完全に自分を消してしまうことが出来ず、森繁久弥の顔が覗いてしまう。彼が新劇の世界に進まず、大衆演劇の世界に飛び込んだのは、自分の地や癖を消し去ることが出来ず、与えられた役になりきることができなかったからではないか。森繁は半分、自棄的な気持から、大衆を相手のドタバタ喜劇を演じるようになったのである。
私は今回、初めて森繁が自作の歌曲を歌う映像を見たが、歌を歌わせてもやはり彼の地が出てしまっていた。彼には固有の抑揚があり、リズムがあって、うまく歌おうとしても生得の浪曲的な調子が出てしまう。歌を歌うときでも、演技をするときでも、外に向かって表出される80パーセントまでが森繁の地と癖から成り立っており、彼が苦心して身につけた芸は残りの20パーセントに過ぎないのだ。
「美の巨人」という番組を見ていたら、そのナレーションを担当している小林薫の声に森繁を思わせるような浪曲的な抑揚があり、彼の場合は、地が60パーセント、訓練によって身につけた後天的要素が40パーセントという感じだった。森繁より癖がなくて素直な分、どうしても森繁より印象が薄くなるのである。
森繁は庶民にも、インテリにも、評判がよかった。国際劇場で小坂一也ファンの女の子を叱りつけても、格別観客の反感を呼ばなかったのも、森繁が各層の人間に好感を持たれていたからだった。森繁の大衆人気は20パーセントの作為した芸風から来ており、インテリが愛していたのは80パーセントの地の方だったと思われる。
森繁の地は、天性のものと思われるが、しかし人間の性格に天性のものなどありはしないのである。生まれつきと思われるものも、本人の過去の集大成に他ならず、森繁の地には都落ちして満州でアナウンサーになった時の挫折感や、大陸から引き上げて来るときに体験した惨劇の記憶が塗り込められているのである。
現代のタレントや俳優が、森繁を追い越そうとして叶わないのは、体験量が不足しているからなのだ。所詮、人間は地獄を見てこないと、本物にはなれないのである。