甘口辛口

生を全うすること

2009/11/30(月) 午後 1:45

   (降下した雨雲)

<生を全うすること>


先日、NHKテレビで放映された立花隆のガンに関するレポートは、なかなか充実した内容だったが、その時、こちらはパソコン・トラブルのため取り込み中だったため、話の細部まで理解が及ばなかった。

彼は、ガンが人類の進化に随伴する一種運命的な病気であるため、簡単に撲滅できるようなものでないといっているらしかった。

従ってガンで闘病中の立花隆としては、早晩訪れるであろう死を意識しながら日々を生きざるを得ない。彼は、そうした状況下で獲得した彼なりの悟りについて語っている。

その悟りが何かといえば、死ぬ間際までしっかり生きようということであり、ごく平凡なことなのだった。換言すれば、最後まで生を全うしようということなのである。そのために立花隆は、頭の働きを鈍らせる制癌剤の服用を避けているという。

では、しっかり生きること、最後まで生を全うするとは、具体的にどういうことを意味するのだろうか。その解答は、千人千様だと思われるが、その基盤にある共通項を探れば、生命の本性に合致した生き方が浮かんでくる。

ベルクソンは、生命の本質が創造的進化にあるという自説を説明するのに、「笑い」を例に引いている。人間は、創造的進化という本性に従って、日々自分を新しくして行かねばならない。だが、この本性に逆らって同じことを反復したり、過去に固着したりすれば、他人の笑いを招くというのだ。

ベルクソンはモリエールの喜劇を分析して、舞台上の俳優が機械仕掛けのような動き方をする場面で観客が笑い出す事実を指摘する。生身の人間は融通無碍の動きを示すのに、誰かがこれに反する動作をすれば、創造的進化する人間の所作との比較において、周囲は彼に笑いを浴びせるのである。つまり、笑いは、習慣的行為を繰り返し、過去に固着する人間の反生命的行動を処罰する武器であり、彼らを創造的進化に向かうように促す鞭になっているというのだ。

このベルクソン的観点に立てば、年を取ったからという理由で、知的活動を中止するのは「よく生きること」にはならない。加齢と共に、古く懐かしきものに立ち返るのは結構だが、それには新しい視点による解釈が必要なのである。古いものを創造的進化を続ける内面世界に置き直し、死んだものに新たな意味を発見するという方法で過去を回顧しなければならない。

今回の国家予算仕分け作業でも、防衛予算への切り込みの手ぬるさが際立っていた。理由は、核武装した北朝鮮への警戒感が強いからだった。自民党の安倍晋三、麻生太郎、中川昭一(故人)や、民主党の松下政経塾出身議員らは、口を開けば北朝鮮の脅威を論じる。

しかし彼らは本当に北朝鮮を脅威と感じているのだろうか。

北朝鮮には、日本を攻撃する理由が全くないのである。北朝鮮と韓国・米国の間では、朝鮮戦争の決着がまだついておらず、いまだに双方は休戦状態にある。北朝鮮の国家目標は南北朝鮮の統合にあるから、金正日が軍事上の仮想敵を描いているとしたら、それは日本ではなく韓国なのだ。金正日が日本人の拉致を命じたのは、拉致をした日本人を洗脳して北に忠誠を誓わせ、その上でスパイとして南へ送り込むためだった。日本人に対する韓国の警戒心が薄いことを利用して、日本人をスパイに仕立てようとしたのだ。

日本の政治家が、こういう事情を無視して北朝鮮の脅威を口にするとしたら、それは為にするところがあるか、あるいは冷戦時代の古い意識に固着しているからなのだ。もし彼らが本気で北朝鮮を脅威だと感じているなら、日本にとってこれほど危険なことはない。日本側の軍備増強を自国に対する攻撃準備と見て、先方も日本を仮想敵と考えはじめるからだ。

欧米の東アジア研究者は、北朝鮮の現政権が他国に攻撃を仕掛けるなどということを誰も信じていない。彼らは、北朝鮮の金正日政権が崩壊する可能性の高さの方に注目し、そうなったときアジア情勢がどう変化するかについてシュミレーションしているのだ。

立花隆は、現代科学の動向に注意を怠らないだけでなく、内外の政治情勢にも常に関心を払い続けてきた。彼は安倍内閣の時代に政権が憲法改正をたくらんでいることに危機感を覚え、安倍晋三に「宣戦布告」をしている。そして活発に新憲法擁護のための論陣をはり、安部を追い詰めることに一役買っている。

「生を全うする」とは、死の瞬間まで好奇心を失わず、常に自分を新しくして行くことなのだ。個人として新しくなるだけではない。小なりといえども権力と対峙し、創造的進化のために戦い続けることこそ、生を全うすることなのである。