(綱島梁川)
<綱島梁川の「見神実験」(その2)>
「見神」の実情
綱島梁川の内面に設けられた空虚な聖壇に、ようやく神の来臨する気配の見えたのは明治三十七年七月の夜半だった。この時、彼は三十二才になっていた。「予が見神の実験」によって、その状況を再現してみるとこうなる。
結核を病んでいた梁川は、毎夜一時間ほど布団の上で静坐する習慣を身につけていた。その夜も、何時ものように静坐していると、室内の四壁がしいんと澄み通って、心の中が冴えわたるような気がした。やがて、彼の心の底から「帰依の酔い心地」とでもいうような歓喜が湧き出て来て、おもむろに意識の全面に行きわたっていった。気持は「玲瓏として」澄みわたり「充実」していた。「静かに淋しく而かも孤独ならざる無類の歓喜」は十五分ほど続いた後に、ほのかに消えて行った。
以上の体験を彼は、後に「情的・静的・消極的見神」と呼んでいる。これは、神が本格的に出現する以前に、神を迎えるためになされた準備体験であり、やがて到来する本格的な体験に先立つ予鈴だと云うのだ。彼はこの時、神の気配を感知し、神を迎えるに房わしい透徹した心境を整えたのである。
綱島が第二回目の体験と呼ぶものは、それから二カ月後の九月末の夕刻に出現した。彼はもう、家族に支えられなければ銭湯にも行けない程衰弱していた。彼はそうやって近所の銭湯に出かける途中、町空に夕陽がかかっているのを見た。この光景は不思議に彼の心を踊らせた。そのうちに、彼は不意に目前の光景を「天地の神」と共に見ているような気がした。神の見ているのと同じものを自分が見ていると感じることによって、目前の光景は自から「森然たる」ものになった。粛然とした永遠の光景に変ったのである。
彼は、のちにこれを第一回体験と第三回体験の中間に位置する体験だと規定している。神は未だ彼の心の内室に入り込んではいない。しかし、既に彼の身近かに出没し、彼と共存し、彼と同じ対象を眺めている。第一回の体験では、未だ気配だけで姿を現さなかった神が、ここでは、はっきりと浮上して来て、彼のかたわらに同行二人といった風にたたずんでいるのである。第三回目の体験は、この二カ月後の十一月の夜半に起った。綱島が「驚天駭地」「驚絶駭絶」「特絶無類」など、最大限の表現をもって語ろうとした最後の体験である。
その夜、彼は燈下に坐って物を書いていた。時刻は夜の十一時頃であった。毎日、ペンを動かして生活している文筆業者の心境は、私達の窺い知ることのできないものである。夏目漱石の「文鳥」を読めば、書斉で自分の走らせるペンの音だけを聞きながら毎日を過ごす作家の寂寥感が確実に感じ取られる。
綱島梁川も、「予はこれまで同じ燈の下に、同じ刻限に無心の気分にて、筆を取りしこと、幾百回なりしを知らず」と書いている。暗い室内に燈火がともされている。そのまるい光の輪の中に、白い原稿用紙とペンを持った自分の手を浮びあがらせて、彼は数え切れない夜を過して来たのだ。原稿用紙の上をペンが動き廻るのを無心に眺めるという何百回も繰返してきた行為が、この夜の彼の意識を別次元に引きさらって行って瞬間的に意識の空白が生まれた。その空白に「如何なる心の機(はずみ)にか」、神が入り込んで来たのである。彼がはっと思った時には、今までの自分が「我ならぬ我」になっていた。ペンを取っている自分は、「天地の奥なる実在」と化し、「神」になっていたのだ。反省も観察もはさむ余地のない、一瞬の間の出来事であった。
彼は自己が電線になって、天地深奥の実在を呼び出したという風に感じた。ペンを動かしているのは、「天地の深底より、堂々と躍り出たる神自身なり」と感じた。彼の心と身体は、「神」に乗っ取られ占拠されてしまった。その結果、彼自身は片隅の方に押しやられ、単なるその場の立会人に変ってしまった。彼は「燃え騰れる火」のようなものに逢着したという感覚におそわれた。その「堂々と現前」して来たものは、「無限の深き寂しさ」の底からやって来たのである。そして、彼に「はたと行き会った」という遭遇感を残し、僅か数分の後に立去ったのであった。
「見神」の瞬間について語る彼の言葉は、必しも明確ではない。説明抜きの断定が目だち、描写の力点があちこちに分散し、全体として取りとめのない印象を与える。しかし、私は全面的に彼の言葉を信じるのである。
この体験があった後、二・三日の間、綱島梁川は何だか狐にでもつままれたような気持でいた。唐突にやって来て、唐突に去って行った体験が、事後に本人に与える感情は当惑の念に他ならない。体験の明細はまるで焼付け処理をほどこした金属プレート上の原色画のように何時迄も脳裏から消えないのに、これを自分でどう解釈すべきか見当もつかないのである。綱島梁川は、ほゞ半年の間、この体験についてはっきりした判断を下すのを差控えていた。
だが、彼は自身の体験を色々と吟味した後に、彼の意識野に超出して来たものを神だと断定したのだった。彼はそう断定しながら、神についてはっきりと語ることができなかった。そこで、彼はこの現象を見守っていた自我の存在に着目し、これに思考を呼び集めて「父子相会」という図式を発展させて行くのである。彼は、その瞬間に自己が消失したと感じると同時に、他面では自分は「意識のいづこかの一隅」に退いて、一種の驚喜と畏敬の念をもって目のあたりに現前した神を目撃していたと感じた(実際は、最初に完全な自失の状態があり、続いて自己感が徐々に目覚めて来たものと思われる)。「予は神に没入せり、而かも予は尚ほ予としての個人格を失はずして在り」という事実を根拠として、彼は父なる神と子なる我の邂逅という構図を作りあげ、様々な神学的解釈を付加して行くのだ。
綱島の最晩年の思想は、この見解の延長線上に成立する。彼は、人間の神に対する感情を「天地の父に対する親孝行のこころ」「子たる敬虔の情」と見るようになる。信仰は本来、こうした単純で素朴な見方の上に成り立つものかもしれない。こういうナイーブな見方を梁川に確立させたのが、「見神実験」だったのである。
(つづく)