いかにして自分を肯定するか(その2)
「蓮の花」理論による効果が長続きしないのは、個人の内部にある「鬼我」が再び力を得てくるからだ。
「鬼我」というのは、フロイトがいうところの「超自我」を日本風に言い換えた造語である。フロイトによれば、人の内面を構成する二つの要素は、エルと超自我だということになっている。エルは、すべての人間に備わっている根源的な欲動を意味し、超自我はその欲動を裁いて善導する道徳的な意識を意味している。エルと超自我という対立する二要素を、中間にあって調停する役割を果たしているのが自我なのだが、ここでは、フロイトのこの図式を頭に置いた上で超自我を「鬼我」、エルを「痴我」(あるいは「愚我」)と呼ぶことにしたいのである。
人が「ちくしょう」と自分を罵る理由は、痴我の演じる愚行に対して、鬼我があまりにも厳しい断罪を下すので、中間にある自我が調整不能に陥って悲鳴をあげるからではなかろうか。その悲鳴が「チクショウ」なのである。だから、「ちくしょう」という呟きを止めさせるには、厳しすぎる鬼我の裁きを緩和させる必要があるのだ。鬼我の裁きが緩和されれば、自分を肯定することも出来るのである。
そこで、まず鬼我の内実を調べてみよう。鬼我は「盗むな」「嘘を言うな」「人を殺すな」というような自然法的なタブーを中核にしている。そして、それに個人の信仰やら信念、あるいは地域特有の禁忌やらが加わっているのだ。「菊と刀」を著したルース・ベネディクトは、文化人類学的背景を重視し、鬼我の性格を決定しているのは西欧にあっては「罪の文化」であり、日本人にあっては「恥の文化」だといっている。
日本独特の葬式も、「恥の文化」が日本人に加えている社会的圧力の一つである。
日本消費者協会の調査によると、日本における葬儀費用の全国平均額は231万円だが、英国は12万3000円、ドイツは19万8000円に過ぎない。日本人の8割近くが、高すぎる葬儀費用に不満を持っているにもかかわらず、実際に自家で葬式を出す段になると大抵の人々が世間並みのやり方で葬儀を行ってしまう。
これは日本人が世間体を考えるからだが、島田裕巳の「葬式は、要らない」という本によれば、背景には次のような事情もある。
<逆に、あまりにも質素な葬式では、故人の業績を否定し、その価値を貶めるものに思えてくる。葬式は、故人の人生を直接に反映する。成功者にはそれにふさわしい葬式が不可欠だという思いが、成功者の葬式をひどく贅沢なものに仕立て上げていく(「葬式は、要らない」>
こうした配慮は、葬式を出す側にあるだけでなく、葬式に顔を出す側にもある。
<他人に比べて(香典)の額が少なすぎれば、世間体が悪くなる。逆に、多すぎても、それは自分を世間の評価よりも高く見せようとする「分不相応」な振る舞いとして受け取られる可能性がある。それも、世間体はよくないのである(「葬式は、要らない」)>
日本人の超自我にあっては、個人の信仰や信念に基づくものは希薄で、世間体維持のための規範ばかりがやたらに肥大しているのである。そのために、超自我は周囲への気遣いや配慮でふくれあがり「鬼我」と呼ぶしかないものになってしまう。
では、日本人の超自我を鬼我にしてしまっているような世間体維持のための凡百の心がけや規範を捨てて、鬼我を尋常なレベルまで引き下げるためにはどうしたらいいだろうか。
一発逆転というような妙手はない。世間的規範は、もっともらしい「物語」によって補強されているので、それらを「事実唯真」の目で見直し、ありのままの真実を求め続けるしかないのだ。
例えば、カトリック教や仏教では、出家者は高位になればなるほど、キンキラキンの衣に身を包み、威厳ありげなポーズを取る。芥川龍之介は、勲章を胸に飾っている軍人を眺めて、「酒に酔うことなしに、どうしてあんなものを身につけて街を歩けるのだろう」と呆れていたが、キンキラキンの高僧らを見たら、「よくもあんなものを着て、人前に出られるものだ」と嘆くに違いない。僧職にあるものが、綺羅をまといたがるのは、それが信者らの崇敬を呼び寄せると考えているからだ。事実、愚かな信者らの頭にある物語によれば、あの僧は厳しい修行を続けて高徳の聖(ひじり)になったから、あんな高価で美しい衣装を着られるのである・・・・。
本来、仏僧は髪の美醜を競わないために剃髪するのだし、身につける袈裟は墓場から拾い集めてきたボロを綴って仕立てたものであるべきなのだ。
身の回りの現実を事実唯真の目で一つずつ見直して行けば、世俗を飾る物語は次々に崩れて、人はすべて同じという事実に到達する。この事実に耐えられないものが、天才伝説、英雄神話なるものを信じ、あわよくば自らも聖なる世界に組み込まれようとあがくのである。
こうしてすべての物語が崩れ去ったあとに、同じ人間である我と人が残る。そうなったときに、超自我は自己を裁くことを止め、鬼我は「凡我」に変わるのだ。
(つづく)