甘口辛口

大逆事件から100年(その1)

2010/8/25(水) 午前 11:28

大逆事件から100年


大逆事件というのは、明治天皇の暗殺をくわだてたという理由で、幸徳秋水以下26名の社会主義者、無政府主義者が逮捕され、そのうちの12名が死刑になった事件である。

事件そのものは、宮下太吉という明科製材所の機械工が中心になって計画したもので、併せて3,4人がその計画に同調したに過ぎなかった。しかも計画は準備段階でストップしていて実害はなかったから、宮下らは逮捕されたときも、自分たちは不敬罪で処罰されるだけだろうと考えていた。それが死刑12名という明治史を揺るがす大事件になってしまったのである。

首謀者の宮下太吉は各地を転々と流れ歩く職工だったが、堺利彦や幸徳秋水が発行していた平民新聞や、天皇制の起源にメスを入れた久米邦武の「日本古代史」などを読んで、「階級意識に目覚める」ようになっていた。彼は、上から言われるままに、皇室崇拝と部落民蔑視を抱き合わで信じ込んでいる国民の目を開いてやらなければならぬと考えはじめる。

天皇も、部落民も、人間であることに変わりはない。ところが天皇は、人間ではなく生きている神とされ、部落民は人間以下の畜類だとされている。日本人の大半はこれを本当のことと信じ込んでいるけれども、もし皇族が被差別部落に移り、部落民が皇居に引っ越したとしても、着ているものを取り替えたら、誰もその違いに気がつかないだろう。

少しでも考える力があれば、天皇が神だなどという話も、部落民が並の人間より卑しいという説も真っ赤なウソだと分かるのに、世の学者先生たちも、新聞雑誌も、そのことに触れないようにしている。宮下太吉は、日本人の迷妄を正すには、まず、天皇制を廃止することからはじめなければならないと、確信するようになる。

そう確信すると、直情径行の宮下は、早速行動に移った。彼は大阪出張の際、大阪平民社に乗り込んでいって、森近運平に談判している。

「森近君、君は皇室のことをどう考えているのか」

森近運平は、関西地区における社会主義者のリーダーだった。その大物の森近に向かって、初対面の宮下はいきなり、こう問いかけたのだ。

宮下は、その翌年には東海地方に遊説に来た片山潜にも相談を持ちかけている。

「片山さん、皇室をなくすことは出来ないのでしょうか」

その頃(1908年)、宮下太吉のところに差出人不明の小包が届いた。差出人は箱根林泉寺の住職内山愚童だった。彼は宮下と一度もあったことはなかったが、その名前だけは知っていたのである(内山愚童も大逆事件で死刑になっている)。

開いてみると、50部ほどのパンフレットが現れた。その表紙には赤地に白抜きで、「無政府共産」と印刷されている。最近、刊行された田中伸尚の「大逆事件」には、このパンフレットを読んだときの宮下を次のように描写している。

<宮下はわずか15ページのこの文書が肺腑に沁みわたり、今までのもやもやした疑問が一気に氷解していくようで快哉を叫びたくなった。冒頭の

「なぜにおまいは、貧乏する。ワケをしらずば、きかしやうか、天子金もち、大地主。人の血をすう、ダニがおる」

という俗謡がまた、すとんと胸に落ちた(「大逆事件」田中伸尚)>

森近運平からも、片山潜からも、思わしい反応が得られず、失望した宮下は、自分の力で直接人々に訴えてみようと思った。彼はパンフレットを受け取った一週間後に、そのパンフレットを抱えて大府駅に出かけた。天皇が乗った「お召し列車」が大府駅を通ると聞いたからだった。

<(宮下は)「お召し列車」が大府駅を通ると知り、会社を休んで出かけ、奉迎に集まる人たちに小冊子を配って歩いた。
「天子様なんて、ありがたいもんじゃないんですよ」と言いながら。しかし人びとの反応は冷たく、宮下の期待は大きく外れた。これでは社会主義を実現することはできない、天子もわれわれと同じ人間なのだ、ということを人民に知らせなければ、天子への迷信はなくならないと思い込むようになる。
「爆弾をつくり、天子も我々と同じで血の出る人間だということを分からせて、人民の迷信を打破しなければならない」
こう思いこんだ宮下は、直情的に一気にテロリストへの道を駆けていく(「大逆事件」田中伸尚)>

民衆に直接訴えても、反応がない。こうなれば幸徳秋水に訴えるしかないと、宮下は思い立った。幸徳は何と言っても堺利彦と並ぶ社会主義者の中心で、「赤旗事件」で在京の社会主義者がほとんど全員逮捕された後で、唯一逮捕を免れた大物だった。彼は「赤旗事件」当時、郷里の土佐に帰省していたので幸運にも逮捕を免れ得たのだった。

「堺がやられた。すぐ東京に帰れ」という同志から電報で促されて、幸徳は急遽上京して、社会主義陣営立て直しに奔走することになる。

ところが、宮下太吉が訪ねた頃の幸徳は、菅野須賀子と同棲を始めたことで同志の信頼を失い、誰も彼のところに寄りつかないようになっていたのだ。菅野須賀子は、赤旗事件で逮捕された荒畑寒村の婚約者だったから、幸徳は獄中にある後輩の女を奪った「不徳義漢」と非難され、菅野は下っ端の主義者を捨てて大物の幸徳に乗り換えた計算高い女として嫌悪された。こうして、幸徳・菅野の二人は孤立無援の状態にあったのである。

同志からすっかり見放された二人にも、僅かだが味方はいた。幸徳・菅野と同居して書生の仕事をしている新村忠雄と、草花栽培の園丁をしながら幸徳のもとに通っていた古河力作の二人だった。この四名が身を寄せ合うようにして、細々と運動を続けているところに宮下太吉が訪ねてきて、明治天皇暗殺の計画を打ち明け、賛同することを求めたのだ。

宮下が、「日本人は天皇を生きている神様だと思っている、その天皇の馬車に爆弾を投じて血を流させれば、天皇もただの人間だとわかり民衆の迷夢もさめるはずだ」と説くと、幸徳は、「将来その必要もあろう、そして、そのようなことを致す人間も出てくるであろう」と言葉を濁し、宮下のプランに賛成だとも反対だとも言わない。

その頃、関西における社会主義のリーダーだった森近運平も、運動が行き詰まって東京に出てきていたので、彼に計画を語ると、森近運平は、「私には妻子があるので、参加できません」といともあっさりと拒否されてしまった。

ところが菅野須賀子だけは違った、宮下の提案に飛びつい来たのだ。彼女が宮下の提案を新村忠雄と古河力作に告げると、二人も直ぐ興味を示した。そこで幸徳秋水は自然に傍観者の立場に置かれ、計画は菅野・宮下・新村・古河の四人の間で進められることになった。幸徳は、四人が集まって相談をはじめると、その場を去って別室に移るのが常だった。

──計画はなかなか進展しなかった。

宮下太吉が製造した爆弾は、居住地近くの大足山で実験したところ見事に爆発したが、計画を実行するには改めて爆弾を作り直さなければならない。そして、新たに作った爆弾についても、念のために、ちゃんと爆発するかどうか確かめておく必要がある。

宮下を除く三人は、宮下からの実験結果に関する報告を首を長くして待っていたが、彼は信州明科の職場に戻ったきり、何の連絡もない。新村は、宮下と鉄道の駅で落ち合って爆弾製造の進行状態を聞く約束を取り付けたにもかかわらず、宮下は約束の日に駅に現れなかった。

この頃、宮下は人妻と不倫の関係になり、頭の中はそのことでいっぱいになっていたのである。相手の女というのは、宮下の下で働いていた清水太市郎の内妻小沢玉江だった。

(つづく)