(裏庭)
卒業できない大人たち
これまで、テレビの政治番組では、「パックイン・ジャーナル」と「たかじん委員会」を見ていた。といっても、それほど熱心に見ていたわけではない。「パックイン・ジャーナル」を司会する愛川欽也のおしゃべりが鼻について来たり、「たかじん委員会」で、あまりバカバカしい排外論が交わされるのを見ていると、うんざりして視聴を中断していたから、まあ、時々この二つの番組をのぞき見していたといった方が正確かもしれない。
お笑い番組的な面白さという点では、やはり「たかじん委員会」の方である。この番組の常連は田嶋陽子を除けばタカ派がそろっていて、お山の大将気分が濃厚な面々だから、一度何かを主張し始めると、我説を言い張って容易に引き下がらない。挙げ句の果てに、喧嘩口論がはじまったりするのである。
一ヶ月ほど前だったか、ゲストのコメンテーターに西尾幹二が加わった時は面白かった。
番組が開始するやいなや、西尾幹二と三宅久之の小競り合いが始まり、やがて西尾の暴論に田嶋陽子が反撃すると、その田嶋を、隣席にいた常連コメンテーターが、「バカ!」と言って罵る始末だった。そのうちに、西尾と司会者の間でも言い合いがはじまり、司会者が西尾を高飛車な口調で叱りだした。
すると、二人の応酬をひな壇の高みから見下ろしていた山口もえが、お姉さんぶって自分より遙かに年長の司会者をたしなめるのである。
「折角来ていただいたお客さんに、そんな乱暴な口の利き方をしてはいけませんよ」
その有様たるや、まるで学級崩壊した小学校の教室か、吉本喜劇の一場面みたいだったのだ。
西尾幹二は、四方八方から叩かれて散々だったが、それも無理からぬことだった。彼はこんなふうなことを言っていたのだ。
「日本人は、皇室を中心にして一致団結しなければいけません。世界の一等国なんだから」
戦前の小学生は、日本が5大国の一つになったと聞かされて大喜びしたものだった。第一次世界大戦で戦勝国側に付いた日本が、国際連盟における序列で主要五国の一つに数えられるまでになったのである。子供たちは、大喜びで五大国日本とか一等国日本と、誇らしげに自慢しはじめたのだ。
この番組を通じて明らかになったのは、西尾幹二の頭脳が戦前の小学生レベルの段階でストップしているということだった。
タカ派の皆さんは、歴史学者や教師たちの「自虐史観」を攻撃する。そして、そのような歴史観から作られた教科書は廃棄すべきだと言い張り、西尾幹二らは皇国史観に基づく教科書を編纂している。「たかじん委員会」でも、「教科書を国定教科書一本にしろ」という声が上がっていた。この番組に集う皆さんは、歴史から何も学ばなかったのである。
軍国主義によって洗脳されていた日本人が、正気を取り戻したのは戦争に負けたからだった。その意味で、敗戦は日本人にとって過去と決別するいいチャンスといえた。敗戦は、すべての国民に突きつけられた試験問題のようなものだったのだ。
大国をめざし一等国になろうとしていた明治以後の日本にも、中江兆民や石橋湛山のように「小国主義」を唱道する政治家がいたのだが、誰もほとんど耳をかさなかった。それが敗戦をスプリングボードにして、大国主義・忠君愛国主義から足を洗って、国際協調・平和主義・小国主義へと舵を切ることになったのだ。
世界史は大きく転換しつつあるのに、過去の栄光にしがみつき、後ろ向きの姿勢で生きている人間が何処の国にもいる。ドイツに行くと、スキンヘッドの若者が日本人と見れば、「今度はイタ公(イタリア人)抜きでやろうや」と話しかけるという。
敗戦という試験問題を解けなかった守旧派の大人たちも、復古主義から抜け出すチャンスをいくらでも持っている。
中国人のなかにも、日本を蔑視して「小日本」と呼び、大国意識に酔いしれている自称愛国者がたくさんいるらしい。その中国では、今回ノーベル平和賞を与えられた人物を11年の刑で投獄していた。こういうニュースを知ると、保守派のイデオローグらは、得たりとばかり調子に乗って中国の後進性を非難する。だが、今の中国がやっているような独善的なことを、日本はついこの間までやっていたのである。
中国のノーベル賞受賞者に課された罪名は、「国家政権転覆罪」だったが、日本が敗戦まで利用してきた思想弾圧のための法律は、「治安維持法」だった。この法律によって社会主義者から自由主義者にいたるまで、おびただしい日本人が投獄され、三木清のような非政治的な哲学者まで獄死させられている。「国家政権転覆罪」も、「治安維持法」も、専制的な政府が自身の政治体制を完全無欠なものとして国民に押しつけ、これを批判するものを容赦なく断罪する法律だった。
「ひとのフリ見て、わがフリ直せ」という言葉がある。戦後70年たっても、まだ卒業できないでいる西尾幹二ら大人たちに、この言葉を捧げたい。人類の未来に目を注いで生きていたら、過去にとらわれ、国家間の小さな争いに一喜一憂する愚かしさを克服できるのだ。