(ミレー「歩きはじめ」)
心のなかの生態系
NHKの「こころの時代」という番組を見ていたら、数学者の森毅が登場して、自らの人生について語っていた。面白かった。森毅は、テレビによく出ていたそうだし、新聞・雑誌にも頻繁に寄稿していたらしかったが、私はこれまで彼の多彩な才能に接する機会がなかったのだ。
彼の発言で記憶に残ったのは、「教師には、役人と芸人という二面が必要だ」という言葉と、「心のなかの生態系を大事にしなければならない」という警告だった。
教師には、テストをして生徒の成績をつけたり、永久保存の学籍簿をこしらえたりするお役所的業務があり、そして又、授業で生徒を飽きさせないようにするという芸人的業務がある。この二面性が必要な点では、大学の教授でも同じだと森毅は考えているらしかった。
彼はまた、専門の世界に閉じこもる学者の宿弊についても苦言を呈している。学者は専門外のジャンルにも手を伸ばし、多面的な知識と技量を身につけ、心の生態系を豊かなものにしなければならないというのだ。「心のなかの生態系」という考え方には新鮮な味わいがあった。
アメリカの哲学者ウイリアム・ジェームズには、「多元的宇宙」という著書がある。胃潰瘍で死の床にあった夏目漱石は、これを読んで深く共感している。多元的宇宙論とは、万物を律する一元的な原理の存在を否定し、宇宙は原理を異にする多様な世界から成り立っていると主張する。宇宙は、多元的な世界が互いに影響し合って生み出したある種の均衡の下にあるというのである。
そうだとすれば、われわれの意識は、そのようなものとして外部の世界を写し取っていない。形式的な完全性を求める人間は、宇宙も人間も統一的な原理の支配下にあると速断してしまうのだ。
人間も又、宇宙と同じように多元的な存在であることを銘記しなければならない。
D・H・ロレンスの「息子と恋人」がなぜ優れているかといえば、人間を多元的存在として描いているからだ。作品の中に出てくる母と息子は深く愛し合っているけれども、母子の内面には相手に対する愛のほかに憎しみや無関心も横たわっており、それらを重層的に多元的に描いているから、作品は希に見るほどリアルなものになったのである。
やがて息子は、清純な娘と年上の人妻という二人の女と交渉を持つようになる。ここでも主人公の女たちへの愛には、多元的な感情が絡んでいる。そして、主人公は、最後に母と二人の女を捨てて、実人生に踏み出して行くのである。
私たちが読み慣れている恋愛小説では、愛を一筋の流れとして取り上げ、それが次第に色褪せていって裏切りになったり、憎しみだったものが突如愛に変わったりする。しかし、ロレンスは、多元的な情念が、時に相克し、時に協調し、より高い均衡状態を目指して転生するものとして恋愛感情を描くのだ。
フロイトは、人間には生を求める欲求と、死を求める欲求が併存しているという。彼は、この二つの欲求を主軸にして、その周辺に多くの欲求が寄り集まっていると考えている。そして、この多元的な欲求を二つのグループに分け、マイナスの欲求を「無意識」の区画に繰り入れるのだ。
では、内面の多元的な要素が、分裂状態を脱して均衡状態になったらどうなるだろうか。「常の道」に還帰するのである。
私は、これまでに以下の人々に惹かれてきた。
中江兆民
大杉栄
中野重治
森鴎外
坂口安吾
大岡昇平
熊谷守一
鶴見俊輔
(鴎外が、真ん中に位置しているのは、彼に惹かれた時期が中年に入ってからだったからだ。これらの名前は、私が惹かれた順に並べてある)
これらの人物は、習俗に反発して独自の道を歩いて行ったように見える。しかし、彼らは歴史の背後に脈々と流れている「常の道」を歩いた点で、真の意味での守旧の人々だったのだ。彼らは、普通の人であろうとして、かえって奇人とか、仙人とか、硬骨漢とか、アウトサイダーと呼ばれてきたのだった。
人が自分の多元的な世界を守ろうとしたら、その方法は太古の昔から続いてきている「常の道」を歩むしかないのである。
(つづく)