(隣人学園の生徒たち:後列左から3人目が中里介山)
二人の独身者(その4)
*中里介山*
五日市小学校を辞めた中里は、東京に移り豊島区岩淵小学校の教師になっている。郡部の学校では正教員で月給16円だった彼も、都市部の小学校に移ると代用教員扱いになり、月給も10円に減額された。
収入は減ったけれども、首都での生活は充実していた。
時代は日露戦争を間近に控えた明治36年で、彼は血気盛んな19歳だった。「万朝報」を脱退したメンバーが「平民新聞」を創刊したのは、この年だったのである。
中里は、幸徳秋水や堺枯川が「万朝報」にいた頃からその論説を愛読していた。その二人が、日露戦争開戦に賛成する社主に抗議して万朝報社を辞め、週刊「平民新聞」を創刊したと知ると、中里は直ちに「平民新聞」の読者になり、紙面をむさぼり読むようになった。それだけではなかった。彼は同新聞に積極的に投書しはじめたのである。そして、一年とたたないうちに「平民新聞」の常連寄稿家になっていた。
尾崎秀樹の解説によると、中里が同紙に投稿した「予は如何にして社会主義者となりし乎」には、当時の彼の心境が赤裸々に吐露されており、貧困のため勉学をはばまれたこと、肩上げのとれない頃から三多摩の自由民権運動に熱中して演説を聴き歩いたこと、生活苦により一家離散のうき目にあい社会をのろうようになったこと、そして読書をとおして社会主義的思想を信じるようになったことなどが記されているという。
新聞の常連ライターとなった彼は、幸徳秋水や堺枯川をはじめ、平民社に集まる多くの評論家や新聞記者と親しくなる。それとともに、中里の反戦論はいよいよ激しさを増して、舌端火を吐かんばかりになるのだ。
「敵、味方、彼も人なり、我も人也。人、人を殺さしむるの権威ありや。人を殺すべきの義務ありや。あゝ、言ふこと勿れ、国の為なり、君の為なり」
日露戦争が終わると、平民社に集った若い文学者たちは「火鞭会」という組織を作って結集し、機関誌「火鞭」を創刊する。中里もこれに参加して、機関誌に小説や詩を発表していたけれども、暫くすると「火鞭会」を退会してしまうのである。
彼は、この時期、内村鑑三の主宰する「新希望」誌に、「余が懺悔」と題する文章を寄稿している。それによると、彼が社会主義に走ったのは、虚栄心がつよく生意気だったからだという。そして、自分は不遇な環境に反逆し、社会と人にたいする怨みから「主義者」になったと告白するのだ。
「余は社会主義者なりき。余は社会主義の真理を知る。然も余が社会主義に趣きし動機は根底に於て誤まれり。救ひ、助け、愛さんが為に社会主義に趣かずして怨み、憤り、呪はんが為に之に走せたり」
今まで中里が先達として仰いでいたのは、幸徳秋水と堺枯川だったが、日露戦争後になると内村鑑三をはじめ、田中正造、徳富蘆花などに接近するようにようになった。この頃の彼はトルストイに傾倒し、「イワンの馬鹿」などから強い影響を受けている。彼が、「手に肉刺(まめ)のない人の教えは断じて信ぜぬ」と明言して、農本主義に傾斜して行ったのも、トルストイの影響だった。
こうした思想的な転換と符節を合わせるように、彼の身辺にも慌ただしい動きがあった。母が夫を土蔵に置き去りにして、子供たちを引き連れて中里のもとに身を寄せて来たのだ。だが、当時21歳で月給10円の彼の身では、とてもこの大家族を養うことは出来ない。そうした事情を察したのか、平民社で親しくなった田川大吉郎が彼を「都新聞」に招いてくれた。田川は、都新聞の主筆をしていたのである。
新聞記者になってから、中里は文芸、美術、身の上相談欄を担当して、怠りなく勉強した。英訳の「レ・ミゼラブル」を原語で終わりまで読み通しているし、プラトン全集を耽読してもいる。こうした蓄積をバックに、彼は主筆の田川に小説を書きたいと申し出て、都新聞に「氷の花」という小説を連載し始めるのだ。中里、25歳の時であった。
その後も彼は、自身の担当する文芸欄に自作の小説を掲載し続け、大正二年になると「大菩薩峠」を連載し始める。この作品は連載当初から評判になり、これで中里の作家的地位が確立することになる。彼は約6年間、作家と「都新聞」記者という二足の草鞋をはいて奮闘していたが、その間に両親が相継いで亡くなり、弟妹もそれぞれ結婚やら古本屋開業やらで独立していったので、34歳をもって新聞社を辞めて作家の仕事に専念することになる。
自由の身になった彼は、かねてからの念願だった旅行を盛んにする一方で、頻繁に住まいを変えており、明治末年から大正11年までの十数年間、彼は1〜2年の周期で引っ越しを繰り返している。旅行好きで「引っ越し魔」というところに、この世を仮の住まいと見る彼の仏教的な無常観が透けて見える。
新聞社を退社後、中里は執筆活動に専念しながら、実に多面的な社会的事業を展開している。彼は、高尾山麓に六畳一間の畑付きの草庵を結んで「引っ越し魔」の生活に終止符を打ち、農本主義を基本にした定住生活に入る。ここを拠点にさまざまな試みに着手するためだった。
彼は草庵の近くに、敬天、愛人、克己をスローガンとする「隣人学園」を開設して自身で子供たちに講話をしている。二年後には、草庵を青梅線沿線の多摩川をのぞむ地に移すが、これは高尾山のケーブルカー工事が始まり、騒音に耐えられなくなったからだった。この草庵も、六畳二間に風呂場がついた簡素なものだった。
中里は早くから塾教育や農園の経営、鍛錬道場、それに介山文庫などを設立の夢を抱いていた。彼は、その第一着手として草庵前の空地に武術道場を開いた。間口五間、奥行三間の建物で、この道場は、近くの若者たちによっておおいに利用されたが、昭和六年には西自費出版のための印刷所に変っている。
昭和五年五月から、念願の塾教育を行うために西隣村塾を開き、その翌年には大菩薩峠記念館をひらいている。西隣村塾は、学業と労働の一体化を目標にしていて、塾生には日に数時間の生産的勤労を課し、自給自足の生活を求めている。
塾生は十五、六歳から二十五、六歳まで幅広い年齢層を含んでいた。塾生たちの入塾の目的もまちまちだった。上級学校への受験勉強をねらう者、失業中の者などもいて、彼らの雑多な要求を充すことができず、塾そのものの経営は無残な失敗に終っている。
彼は、そのほかに「一人思うことが万人の思いにかよう」という華厳経的な発想から隣人之友社をおこして機関誌「隣人之友」を発行し、そして又「山上山下会」をおこして「峠」を創刊した。「山上山下」とは、「上求菩提 下化衆生」という仏語に基づき、民衆救済のための同志を結集しようとしたものだった。
「隣人之友」には、中里の哲学に基づくスローガンが印刷されていた。
隣人より村落へ─村落より都会へ─都会より国家へ─国家より人類へ─人類より万有へ
─万有より本尊へ
私はこのスローガンを読んだときに、ヤスパースの「包越」を連想した。ヘーゲルは、精神展開の筋道を弁証法によって説明するが、ヤスパースはそれよりもっと簡明な包越概念によって説明する。精神は、古い思考をうちに包みこみながら、より広い世界に飛躍して過去を相対化するというのだ。
中里は、身近な仲間を少年夜学会や青年義会に組織することから社会的活動を始めた。それから、村民全体を相手にしてキリスト教布教の活動に乗り出し、東京に移ってからは、反戦運動を通して都市と国家を対象にしたものに変わっている。最後に彼の運動はトルストイの影響下に人類を対象にするものにまで発展した。こういう活動範囲の拡大は、彼の拠って立つイデオロギーと連動していて、中里をして社会主義からキリスト教へ、キリスト教から仏教へと向かわせている。そして万有世界を視野のうちに入れる終着点に到達すると、彼はすべてのイデオロギーを包越した「あそび」の境地に参入するのである。
後年、中里は、「大菩薩峠」のモチーフを「人間界の諸相を曲尽して、大乗遊戯の堺に参入する」ことにあると説明している。「大菩薩峠」は大衆小説だという批評に反発した彼は、「遊戯三昧」とか、「カルマ曼荼羅世界」という言葉をしきりに駆使しはじめるのだ。こうした中里介山の作家的立脚点は、「人間の絆」を書いたサマセット・モームのそれに似ている。モームは人間の営為を生涯かかって編み上げる織物に喩える。その織物にはいろいろな絵柄が織り込まれているけれども、そのすべてが無意味なのだ。
中里介山も、個々の人間の生涯を曼荼羅のなかに置いて眺める。すると、人間の生涯は結局のところ遊戯でしかないことが明らかになるのだ。この広大無辺な万有世界の中で、すべての人間が無意味な遊戯をしながら死んで行くのだ。
中里介山という作家の一番基層にあるのは、ニヒリズムにほかならなかった。
(つづく)