(写真は上林暁)
本を「自炊」する(その2)
*上林暁「ちちははの記」を読む*
自宅にある本を毎日4冊ぐらいずつ電子書籍化しているうちに、大型古書店で売られている本を買ってきて電子化したらどうだろうかと考えるようになった。一時期、出版各社が競って発売した和洋の文学全集も、今では一冊100円で叩き売りされている。これを買ってきてパソコンで読めるようにすれば、電子書籍化の原資が安くて済むのだ。
行きつけの古書店から、二回に分けて20冊ばかりの本を買ってきた。すべて小さな活字をぎっしり詰め込んだ二段組みの本である。
私は以前から、ショーロホフの「静かなドン」を読みたいと思っていた。それで、最初に、三冊続きになっているこの本を確保しておいて、次にフォークナーの「八月の光」、フローベルの「ボヴァリー夫人」など外国文学の本を10冊あまり買い込んだ。
日本文学の関係では、上林暁や外村繁などの私小説作家の全集を選んだ。外国文学についても日本文学についても、加齢とともに私の嗜好が変わってきていて、地道な自然主義系の作家に関心を抱くようになっているのだ。
買ってきた本は、すぐに電子書籍化する。裁断機を使って作業をすると、20冊の本も大した苦労なしに電子化出来るのだ。そして、コピーしてしまった本は、元の表紙に挟んで書庫の隅に積んでおいた。
すべての本を電子化してから、手始めに読んだのは上林暁の私小説だった。上林の「ちちははの記」を読んだら、明治末から大正のはじめにかけて日本人の夫婦がどんなふうに生きていたのか、そのイメージがかなりハッキリつかめた。
この作品を執筆したとき、34歳の上林暁は妻子と一緒に東京で暮らしていた。そこへ郷里の父が危篤だという電報が届いたのだ。そこで、作者は妻子を伴って8年ぶりに帰郷することになる。
家に戻ってみると、父は蚊帳を釣ってその中で仰臥し、母がしきりに父の足腰を揉んでやっていた。聞けば、上林のところに電報を打ったときが危機のピークで、それから病気は少しずつ快方に向かっているということだった。しかし作者は、父の病気を主題の一つにしながら、その病気が何であったか最後まで明らかにしようとしないのである。
これが作品の書き出しで、上林暁は筆を転じて次第に両親の過去について説明しはじめる。母は15歳の若さで父の妻になるのだが、それは父が前妻を亡くしたために、その後添えとしてだった。父の最初の妻は、17歳で嫁に来て妊娠し、腹が膨れ始めていたのに柿の木によじ登って、柿の実をむさぼり食べた。そのため彼女は出産時に難産になって、母子ともに命を落としたのである。
その後にやってきた上林の母も、子供っぽい点では前妻に劣らなかった。夫である上林の父もまだ18歳で、当時、市の師範学校に在学中で寄宿舎に入っていた。それで、新婚時代の母は姑と二人で婚家で暮らし、休日に夫が寄宿舎から帰ってくるのを待っていたのだ。父が寄宿舎住まいの身で、立て続けに二度も妻を迎えることになったのは、彼が一人息子で、父親亡きあと一家の戸主になっていたためらしかった。
母は嫁に来たものの文字も読めなかったし、裁縫も出来なかった。それで、せめて裁縫だけでも出来るようにならなければというので、隣村にある組合高等小学校の専修科に通うことになった。
母は裁縫だけは何とかマスターしたが、その後、上林暁をかしらに9人の子供を産んだから、育児と農事に追い回されて、無我夢中で生きた。その上、夫は師範学校を出て教師になったものの、7年間の義務年限を終えるとさっさと退職し、百姓仕事を妻に任せて村役をするようになったから、母一人が必死になって田畑を耕し、蚕を飼うしか生活するすべがなかった。母が金銭に執着するきつい性格になったとしても、それはやむを得ないことだったのである。
病床の父が何とか体を起こして食事が出来るようになった頃に、事件が起きた。母が突然、家を飛び出して姿を消してしまったのだ。事情を聞いてみると、父が母をしかり飛ばしたからだった。
夜中に尿意を催した父が、かたわらで寝ている母を起こして溲瓶(しびん)の用意を命じた。母は目を覚まして、返事をしたがそのまま又眠り込んでしまった。それで父が母を叱り飛ばしたら、母は起き上がり、溲瓶には手も触れないで暗い庭に下り、すたすたと庭から出ていってしまったのだ。父が耳を澄ませていると母は浜へ向かったようだった。
父は不安になり、よろめく足で近くに住んでいる親戚の家を訪ね、家人を起こして、事情を告げる。父は息子に遠慮したのか、同じ家に住んでいる上林暁を起こさないで、親戚に助けを求めたのである。その親戚が、上林のところに通報して来たので、上林は慌てて母を捜しに夜の浜に向かった。浜にはいくつかの水門があって、その淵に自殺者や心中した男女が浮かんでいることが多かったから、上林はまさかと思いながらも強い不安に襲われたのだ。
上林は思い出していた、彼が子供の頃にも同じようなことがよくあったのである。
父が何か母に用事を言いつけても、母は、「あい」と返事をするだけで、すぐには立ち上がらない。すると、父が激しい言葉で、母を叱りつける。叱られた母は、柱の向こうに行って悲しそうにうつむいていたものだった。これまで自分勝手な夫に叱られ続けていた母が、今や家を飛び出すというやりかたで初めて抵抗の意志を示したのだ。
上林が探し疲れて家に戻ってみたら、母は家に戻り父の病床の横に布団をかぶって寝ていた。父の説明によると、母は自身の実家まで行ったが、母の母、つまり上林からすると祖母になる老女にたしなめられて戻ってきたのだという。母の実家は、墓場のある山鼻を二つも回らないとたどりつけない遠くにあるのだが、母は夜道をとっとと歩いてそこまで行ったのである。上林が父とその話をしている間、母は布団をかぶったままじっと動かないでいた。
作者はここまで書いて、そこで留めておけば、作品は従順な母が叛旗を翻した物語としてユーモラスな後味を残すものになったかもしれない。だが、それでは私小説にならないのである。上林が本当に書きたかったのは、それから後のことなのだ。
やがて父はすっかり回復して夜釣りに出かけられるようになった。だが、上林暁は妻子とともにそのまま実家に腰を据えて動かなくなるのだ。東京に出て行けば、また、小説を書いて日々の糧を稼ぎ出さなければならない。実家にいれば、とにかく一家が食べて行けるのである。上林がぐずぐずして帰宅する様子を見せないでいると、次第に両親が苛立つ表情を見せ始める。
父親は息子に皮肉をいう程度だったが、母の態度は次第に露骨になっていった。ある雨の日、上林が少しは原稿を書き溜めておこうと、勇を鼓して机に向っていたことがある。彼が机の上に原稿紙をひろげて、考えこんでいると、ひょっくり母がやって来て、息子の肩越しに、珍らしいものを見るように原稿紙を覗きこんだ。
「われ(お前)がしたいということは、それかよ」
母は、せせら笑う調子でいった。上林は、「うん」と答えるしかなかった。
「なあんだ、そんなことに血道をあげているのか」
初めて息子の仕事を悟った面持ちになって、母はしげしげと原稿用紙を眺め続けるのだ。結婚して夫に読み書きを教えられるまで、全くの文盲だった母には息子が東京で小説を書いていると聞かされても、何のことか分からないでいたのである。
──そのうちに、いらいらした母が婚期を控えてまだ家にいる妹に当たり散らしたり、父に突っかかっていって殴られたりするようになった。上林は、その原因が自分にあることをありありと感じる。上林暁は、そうした実家での憂鬱な日常を小説に書き込み、解決の糸口の見えないままで、作品を終わりにするのだ。
近代以来、作家たちは登場人物を異常な状況の中に投げ込むことで、人間の本質を明らかにしようとしてきた。だが、私小説作家は、平凡な日常生活のなかに露呈されるいじましい私事にこそ人間の真実が現れると考え、自らのぱっとしない生活をぼそぼそと語り続ける。若いうちは、欧米の大作家が構築する壮大な虚構に夢中になっていた日本人も、老齢になると平凡な些事を控えめに語る私小説に真実を感じるようになる。私もショーロホフの「静かなドン」を読むつもりで、買ってきた本を電子書籍化したにもかかわらず、まず、上林暁の私小説から読み始めたのだった。