甘口辛口

在家仏教とは(5)

2011/10/19(水) 午前 11:00
在家仏教とは(5)

河口慧海がインド・チベットに滞在した期間は、明治30年から明治36年にかけての約6年間だった。日本に帰国して大きな反響をもたらした彼は、その翌年に再びインドに渡り、大正4年まで約11年間滞在している。これらに旅に費やした時間を加えると、彼の探検・旅行時代は計18年に及んでいる。

この間、彼は現地にあって、サンスクリット語・チベット語で書かれた仏典を収集して日本に送りながら、たゆむことなく仏典の研究を続けた。「評伝河口慧海(奥山直司)」には、鷹谷俊之著「東西仏教学者伝」から引用した一節が載っている。

<午前五時半に起床し、八時まで座禅と沐浴。
八時半までティータイム。その後、九時半まで『達磨僧舐尼】の英訳を読む。
十時半まで梵字(サンスクリット文字)を練習し、十一時まで梵語文法を学ぶ。
十二時までに昼食。
その後、午後二時まで休息し、二時半から五時半まで梵語の訳読練習。
六時半まで梵語文法を復習。
七時半から一時間かけて通学し、十時まで梵語の訳読練習。十一時まで復習(鷹谷俊之「東西仏教学者伝」)>

慧海はインドに着いてから、一日九時間から十時間の勉強を続けたのである。

慧海は、日本で漢訳大蔵経を2年の間読み続けていた。だから、その内容について知り抜いていたが、サンスクリット語で書かれた原典の訳し方と比較すると、漢訳大蔵経よりもチベット大蔵経の方が正確さにおいてまさっていると思われた。彼はいよいよ熱を込めてチベット大蔵経を研究するようになった。

経部と律部に分かれているチベット大蔵経を読んでいるうちに、彼の内部で一つの変化が生まれていた。慧海は、これまで誰よりも厳格に戒律を守っていたにもかかわらず、律部をあまり重視していなかった。律に執着するのは、衆生の救済という大慈悲心を忘れた小乗仏教の偏見だと思っていたのである。しかし、仏教とは、戒に基づいた端正な日常を生き、その中で菩薩行を実践して行くことではないか。

インド・チベットを旅して異境で仏教を学ぶこと18年、河口慧海はようやく仏教本来の全体像をつかんだと思った。釈迦の説いた本来の仏教に比べたら、日本で盛んな宗派仏教はすべて誤っていた。禅宗も真宗も、その他もろもろの宗派仏教も、大海のような広がりを持つ本来の仏教から逸脱して局部に囚われ、大道を逸れて小路に迷い込んでいる。

出家しないで自家に留まり、在俗の人間が菩薩になることによって今生きている世界を荘厳なものにする、これこそが真の仏教ではないか。慧海はウパーサカ仏教(在家仏教)こそが真の仏教だと信じるようになった。
インドから帰国したときには、慧海は50歳になっていた。

帰国後の彼は、東洋大学の講師になってチベット語などを教えながら、台東区根津に道場を開き、日曜日ごとに仏教講話や仏教子供会を催している。仏教講話は、個々の宗派にこだわらない汎仏教の立場からの講話であり、仏教子供会は慧海の作った和讃などを歌う楽しい集まりだった。

彼は、執筆活動を通して在家仏教の普及をはかることも忘れなかった。慧海はまず、筆を執って国内の伝統的な各宗派を痛烈に攻撃した。

日本仏教の諸派は、それぞれが自分の伝える宗旨だけが正しいとして、他宗派を非難しているから、一般の社会人は、そのどれを信じていいのか分からなくなっている。これは神聖な仏教を冒涜するものだ。

仏教が依るべき経典は、一つや二つの特定経典ではなく、偽経を除いた一切蔵経(大蔵経)全体でなければならない。大蔵経の中で最もよく釈迦の肉声を現わしているのは「阿含経」だが、それ以外の教典にも広く目を向ける必要がある。

われわれが仰ぐべき本尊は、阿弥陀ではなく、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」などの名号でもなく、釈迦その人であるべきだ。また、禅宗が悟りによって仏陀になるなどと説くのも誤りだ。釈尊こそ全仏教の根源であり、これを本尊としないものは仏教ではない。われわれは一刻も早く釈尊に帰一すべきである。

既成の宗派は、信心や悟りを重視するあまり、個々の修養を軽く見る傾きがあるけれども、日常生活の行儀を正すことを忘れてはならない。在家の信者も、最低限、5戒を守らなければならない。五戒とは、「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒」である。

――こう見てくると慧海の唱える「根本仏教」は、ユニテリアン主義のキリスト教に似ている。ユニテリアン主義者は、三位一体論によってイエスを神格化することに反対する。この派は、マリアの処女懐胎を否定し、イエスは人間だったとして、神のみを信じている。

欧米においてユニテリアン主義が主流とはなり得なかったように、ウパーサカ仏教(在家仏教)も日本では発展しなかった。現世利益や悟脱を説かず、派手な祈祷・葬式もせず、ひたすら釈尊への賛仰と正しい生き方を説き、厳しい戒律を課する在家仏教修行団が、日本で主流になることはなかった。ウパーサカ仏教は、既成仏教を完全否定して仏教本来の姿を回復させようとする仏教原理主義だったが、それ故に、日本人はこれを敬遠したのである。

しかし、河口慧海は説き続けた。彼は大正15年に61歳になり還暦を迎えているが、これを機に僧籍を脱して還俗し、文字通り在家の人になって「菩薩道」を実践している。彼は享年80歳(昭和20年)、日本の敗戦直前に
亡くなっている。

私は河口慧海の生涯をたどりながら、久保田冬扇を思い出していた。久保田冬扇は在家仏教の普及に努めながら、自らを冬の扇のように世間から省みられない人間だと諦観していたのかもしれない。彼は誰にも知られずに死んでいったと思われるが、それも覚悟していたことではあるまいか。