甘口辛口

夏目漱石の妻(1)

2011/10/31(月) 午後 6:24
夏目漱石の妻

夏目漱石の妻鏡子が口述した本、「漱石の思い出」を読んだのは、旧制中学校の生徒だった頃だった。その頃には、すでに漱石の作品をかなり読んで彼のファンになっていたから、鏡子夫人が漱石を精神異常者扱いしていることを許し難いことに思った。もし漱石が精神異常者になったとすれば、それは横着な鏡子自身の責任ではないか。彼女は加害者でありながら、あたかも被害者のような顔をして夫の非常識な行動をあげつらっている、何たることだ!

しかし、戦後になって、どっと溢れ出た漱石関連の本を読んでみると、漱石が躁鬱病質者であることは明らかだった。彼は生涯に三度ほど明確に病的な症状を示しているのである。

私が戦後になって読んだ漱石関連本のうちで、最も強い印象を受けたのは、漱石の次男伸六による回想記だった。

彼は、子供の頃に兄と一緒に父に連れられて、上野の盛り場に出かけたことがある。この時、彼は父からいきなり衆人環視の中で殴り倒されている。

理由は、兄弟が射的をしたいと父にせがみながら、いざとなると尻込みをして父のうしろに隠れようとしたからだった。まず兄の方が父の背中に隠れてしまったので、漱石は、伸六に、「それではお前がやれ」と命じた。だが、彼も父の陰に隠れようとしたら、漱石は、「馬鹿つ」と叫んでその場に伸六を殴り倒したのである。伸六はその時の様子をこう書いている。

「はっとした時には、私は既に父の一撃を割れるように頭にくらって、湿った地面の上に打ち倒れていた。その私を、父は下駄履きの儘で踏む、蹴る、頭といわず足といわず、手に持ったステッキを滅茶苦茶に振り回して、私の全身へ打ちおろす」

漱石は、存分に次男を折檻した後で、兄弟をその場に残して、さっさと先に帰ってしまったという。こうした証言を聞けば、誰でも異常なものを感じないではいられないだろう。

漱石自身の作品にも、読者をハッとさせるような文章がある。縁側を通りかかった漱石が、そこに置いてあった植木鉢を庭に蹴落とす描写があるのだ。それは、娘が大事に育てている花を植えた植木鉢だった。漱石は何の理由もなくこれを蹴落としてから、バラバラに壊れた鉢を眺めて、「はかない気持ちになった」とだけ書いているのだ。

今回、亀口憲治の「夏目漱石から読み解く『家族心理学』読論」という本を読んでいたら、こんな話が載っていた。

ある日、妻が外出したので、漱石は女中を呼びつけて悪戯盛りの息子たちを外にださないように申し渡した。ところが、息子たちはいつのまにか、遊びに出てしまっていた。それをとがめた漱石は、指示を守らなかった女中二人を人前で殴ったから、憤慨した二人は家を出ていってしまう。

このいきさつを見ていた長女は、涙を流して女中を弁護すると、父親は今度は何の非もない長女まで殴ったというのである。

漱石の妻は、「漱石の思い出」のなかで、キチガイじみた夫の行動を列挙したあとで、自分の側の親族は漱石と別れることをしきりに勧めたが、欠点の多い夫を支えてやることが自分に与えられた使命だと思って、漱石との結婚生活を続けることにしたと語っている。離婚した漱石が別の女性と再婚すれば、その女性が苦しむことになるから、と言わんばかりの語り口で、自身を美談の主にしているのだ。

だが、話はそれほど単純ではなかった。
(つづく)