甘口辛口

夏目漱石の妻(3)

2011/11/6(日) 午後 1:11
夏目漱石の妻(3)

妻の鏡子は、自分を被害者だと思っていたが、漱石の立場からすれば妻が加害者であって、彼の方こそ被害者なのであった。だから、漱石は何とかして加害者の妻を家から追い出そうとして離縁状を突きつけたり、妻に面と向かって「出て行け」と怒鳴ったりしていたのである。鏡子は、語っている。

<(何かことが起きると)いつもの式で、またも別れ話です。しかし今おまえに出て行けといっても行く家もないだろうから、別居をしろ、おまえが別居するのがいやなら、おれのほうから出て行くとこうです。
(でも、私は)別居なんかいやです、どこへでもあなたのいらしたところへついて行きますからと、てんで取り上げませんのでそれなりになるのですが、いつもきまって小うるさくこれをいうのでした。
そうしてしまいに胃を悪くして床につくと、自然そんなこんな黒雲も家から消えてしまうのでした。いわば胃の病気がこのあたまの病気の救いのようなものでございました>

「頭が悪い」ときの漱石は、実際に「妻は自分を苦しめるために家にいる」と信じ込んでいた。こうした状況が断続して11年間も続き、漱石夫妻はその間に何と7人の子供をもうけている。この夫婦は、とにかく性愛の面ではつながっていたのである。

もしかすると、鏡子は本当に漱石を愛していたのかもしれない。鏡子は、見合い用の写真によって漱石の風貌にはじめて接したのだが、そのときの印象をこう語っている。

「上品でゆったりしていて、いかにもおだやかなしっかりした顔立ちで、ほかのをどっさりみてきた目には、ことのほか好もしく思われました(「思い出」)」

亀口憲治は、その著書の中で鏡子が孫娘に語ったという言葉を引用している。孫娘は、この時、祖母の鏡子と世間話をしていたのであった。

<いつか二人で交わした世間話が、漱石の門下生や、鏡子の弟や二人の息子や甥達に及んだ時、「いろんな男の人をみてきたけど、あたしゃお父様が一番いいねぇ」と遠くを見るように目を細めて、ふと漏らしたことがある。
また、別の折には、もし船が沈没して漱石が英国から戻ってこなかったら、「あたしも身投げでもして死んじまうつもりでいたんだよ」と言ったこともある。何気ない口調だったが、これらの言葉は思い出すたびに私の胸を打つ。筆子(漱石の長女)が恐い恐いとしか思い出せなかった漱石を、鏡子は心の底から愛していたのであろう>

漱石の弟子たちは、師の漱石が生涯浮気をしなかったと信じており、「先生は、生涯を通して、奥さん以外の女性と肉体交渉を持ったことがない」というのが彼らの確信するところだった。
                              
漱石は、鏡子の無教養や迷信深さに閉口していたが、同時に彼女の内部に思考以前の直感のようなものがあることを感じ取っていた。それは悪くすると、彼の嫌いな「小刀細工」の母体になっているかもしれなかったけれども、一家を支えて行く対社会的な能力になっていたことも事実だった。

実際に彼女はその能力を生かして、漱石の門下生たちを籠絡していたのである。

小宮豊隆は、数ある漱石の弟子たちの中で、漱石夫妻から最も信頼されていた。漱石などは彼に通帳と印鑑を預けて銀行に行くことを頼んでいたほどだった。この小宮に対して、鏡子は、相手を惑わすような言葉を投げかけている。

「筆(長女の筆子)は、あなたがすきなんだから、筆が大きくならないうちに、お嫁を貰ってください、そうしないとあの子が可哀想だから」

鏡子は、こういう術策を用いて、漱石の周辺に集まる青年たちを自由に動かしていたから、弟子たちは鏡子を「明暗」に登場する策謀家の吉川夫人にそっくりだと思ったのだ。今回読んだ亀口憲治の著書は、鏡子の世間的能力に焦点をあてて、こう書いている。

<この父親(漱石)が四九歳で病没した後、一七歳の長女を頭に八歳で末っ子の次男まで六人の子どもが遺児として残されました。三九歳で未亡人になった妻は夫の死後、子どもたちを育てながら大正・昭和の激動の時代を逞しく生き抜き、四七年後に八六歳でこの世を去りました。夫の父親歴は一七年であるのに対し、妻の母親歴は通算すれば六三年にも及びます。親としては、この夫は妻の四分の一しか貢献できていないと見なせるかもしれません>

漱石の弟子たちは、漱石が死んでからも陰に陽に鏡子を非難し続けている。例えば、彼らは、鏡子が漱石の死後に洪水のような流れ込んで来る印税を、ぱっぱと浪費したことについて批判する。彼女は夫の死後に二人の男の子をヨーロッパに留学させ、潤沢な学費を送り続け 、二人に外国の地で贅沢三昧の生活を送らせている。

だが、漱石の遺族は母に守られてつつがなく成長し、6人の子供たち(子供の一人は夭折)はそれぞれ幸せな生涯を送っているのである。そのため、漱石の子供や孫たちはいずれも鏡子への感謝を忘れず、彼女に対して心からの賛辞を捧げている。

漱石自身も「修善寺の大患」以後は、妻への評価を改めたように見える。鏡子は、修善寺の旅館でおびただしい量の吐血をした夫を抱きかかえ、瀕死の漱石を蘇生させ、その剛胆ぶりで周囲を驚かせたのだった。

孫の一人は、書いている。

<ひょっとしたら大患以後の漱石の中で、女性の見方の変化がおきていたのではないか、と思わせるものが、ここにはある。それがもしも、かって自分を「探偵」的に監視し、いやがらせをする女とみていた鏡子への見方の変化を意味するとすれば……。
そう思うと孫としてはやはり、どこかホッとするのである>