「身の上相談」回答者の決断
土曜の朝の楽しみは、新聞の「身の上相談」欄(朝日新聞土曜版「悩みのるつぼ」)を読むことだった。
この欄で読者の悩みに答える回答者の一人に、車谷長吉がいた。彼の回答にはニヒリズムが適度に味付けされていて、とにかく面白かったのである。ところが、最近、車谷が登場しなくなったため、土曜の楽しみが一つ減ったのだったが、今日の「身の上相談」は久しぶりに面白かった。相談者は、30代の母親で、タイトルは「障害ある子の育児に疲れ」となっている。
なぜ、今日のこの欄が面白かったかといえば、相談者の書き出しがこうなっていたからだ。
「私は30代の愚かで冷酷な母親です」
オヤと思って、先を読んでいくと、次のような文章が出てくる。
<私は小さいときから見えっ張りで優秀な人間でいたかったため、勉強や運動、スタイルに至るまで努力してトップの位置にいました。人に負けたことはほとんどなく、だから「この私」からこのような子供が生まれ、育てなくてはならないなどと夢にも思ってませんでした。私にとって初めての「敗北」です>
この母親は、鶴見俊輔が「一番主義者」と呼んでいるタイプの女性らしかった。何についても一番でいないと気が済まない競争意識旺盛な女。そんな女性に初めての敗北をもたらしたのが、生まれてきた一人っ子が障害児だったことなのである。
子供には言語が通じないだけでなく、睡眠障害の傾向もあり、体調も不安定で、一瞬も気を抜くことが出来ない。そのため一人で介助に当たっている彼女の体調も悪化して、ここ一年、生理も止まったままの状態にある。それで、つらい状況を夫や親に訴え、精神的、物理的な協力を求めても、「また、愚痴が始まった」程度にしか取ってくれない。今、考えていることは、子供の世話や子供を取り巻く環境から距離を置き、明るく健康に生活するにはどうしたらいいだろうか、ということだった。
この母親は、最後に回答者に向かって、こう訴えている。
「すぐにでも失踪してしまいたい、と思っている私のようなどうしようもない母親に頂ける助言はないものでしょうか」
この相談に対する回答者は、評論家の岡田斗司夫だが、その回答もなかなか振るっているのだ。
岡田は、まず、のっけからこう断定する。
<あなたは「愚かで冷酷」じゃない。「正直で冷静」なだけです>
それから、彼は、こう助言する。
<あなたは、実はすでに正解に行き着いています。「自分が明るく健康に生活するには」「子供の世話や取り巻く環境から距離を置く」ことが必要で、だから「今すぐに失踪してしまいたい」。ね? これがあなたの望みであり、同時に現状の打開策です>
正解が「失踪すること」だとしたら、残された問題は、どこに「失踪」して、何をするかという、方法と手順になる。回答者の助言は、こうなっている。
<「もう限界なので、これから毎月1週間、私は一人旅に出ます。第1回は今度の土曜から来週金曜夜まで。子供の世話をどうするか、あなたたちが自分で考えて下さい」と家族に対して宣言します>
問題は、失踪期間中をどうして過ごすかということだが、この点について岡田は至極穏当なプランを提示するのだ。
<一番のお勧めは、「同じ障害児を持つ母親たちに会ってみる」です。彼女たちも例外なく、あなたと同じ苦しみやストレスを抱えています。あなたの「プチ失踪」冒険談を話してあげてください。悩みをシェアし、同じ方法をとれない「仲間」のために代案を考えてあげましょう>
岡田は、「相談者の失踪計画は、あなた1人のワガママのためではなく、家族や同じ境遇の「仲間」たちを啓蒙するための旅なのだ」と言って激励する。それから、彼はこれまでの「身の上相談」回答者が誰も口にしたことのない申し出をするのである。
「2〜3日ぐらいなら、私の家に泊めてあげますよ。成功を祈ります」
岡田が、ここまで思い切った約束をする気になったのは、相談者の文章を読み、その知性と内省力を信頼する気になったからだろう。本当は、身の上相談の回答者を引き受けた以上は、だれでもこれくらいのサービス精神と覚悟を持っている必要があるのだ。