回心から棄教へ
長男が5,6才だった頃だった。年末の午後に、彼を連れて「はげ山」に出かけた。家の近くの段丘に登ると、その突端に椀を伏せたような小さな山があり、そこには木が生えいなくて丸坊主になっていたから、私たち家族はこれを「はげ山」と呼んでよく散歩に来ていたのだ。その日、家では年越しの食事を作るのに多忙だったから、長男だけを連れて、「はげ山」にやってきたのである。
山の上から眼下の街を見下ろしながら、私は生まれて初めて「詩」を作った。
わが子よ、何時ものようにここの
枯芝に並んで腰をおろし
しずかに
むこうの街を眺めよう
今日は師走で
あそこに一つ一つ光っている屋根の群落も
そこから綿屑のように立ちのばる煙突の煙も
はせめぐる自動車の動きも変にあわただしげだ
人々はあの街の底で
いっしょうけんめいに走り廻っている
虫かごのような小さな心を持ち
その中に愛やなげきを飼い
新しい年に辿りつくために
いっしょうけんめいに走り廻っているのだ
わが子よ、街をかこむ山々に目をやってごらん
お前は歩けるようになったばかりで
父の云うことはよくわかるまいが
アルプスと河岸段丘にかこまれた
この伊那の谷を神さまの掌のようだと思わないか
あそこに見える街は神さまの掌の上に乗っているのだ
冬空がどうして青いか知っているか
誰も空を見る者がないから
人が誰もそれに気がつかないから
だから冬の空はあんなに青いのだ
そしてわが子よ
父の横におとなしく坐って
じっとむこうを見ているわが子よ
あのまっさをな空は神さまの瞳だ
神さまは人が知らないでいる時に
あんなに深く澄んだ瞳で
掌の上の小さな街を黙って眺めているのだ
この「詩」らしきものを作ったときの私は、一個の貧しい信仰者だった。私は毎日、天竜川を挟んで反対側の段丘上にある勤務校に通っていたが、段丘への坂道を上りきって前方に中央アルプスの稜線が目に入ってくると、決まってその稜線の彼方に神の臨在を感じた。
だが、40代半ばのある年のこと、二月の「寒中休み」を終えて勤務校に向かった私は、段丘の坂道を登り終え、いつものように朝日を浴びた中央アルプスを眺めた。すると稜線の向こうに神はいなかったのである。視野の彼方には少し白みがかった朝の空があるだけだった。
私は年末に書店でブルトマンの「イエス」という本を購入し、冬休にこれを通読した。冷徹な本だった。プルトマンは、キリスト教の中にある子供じみた部分を払拭して、女・子供の慰さみ物ではないイエスの素顔を私達に見せてくれていた。これまでイエスの顔は聖職者らの手によって歪められ、泥絵具によって彩色されたインデイアンの酋長の顔のようになっていたのだった。私達はこの絵具を洗い落してしまわないうちは、イエスの実像に接することが不可能なのだ。
イエスは、信者たちの前で面白い奇跡を演じて見せる寄席芸人のような人物だろうか。神はこの世界を律する善美な秩序・法則を作り出しておきながら、他方でこの秩序・法則に違反する奇跡を展開したとしたら、彼は右手でやったことを左手で否定し、自らの世界をその部分だけ抹殺してしまうことになる。
教会だけが聖霊の集まるところで、信者だけが「天国」に行けるとしたら、神は現にはたらいている摂理がそこでだけ効力を停止する例外的な空間を設けたことになり、それは聖域であるどころか、この世に加えられた汚点にほかならなくなる。
神を信じたところで私達の待望するような救いは一切起らない。救いは私達が留保条件抜きで自己を全面的に放棄した時にしか起らない。プルトマンを読んでいると、福音書をはじめて読んだ時に感じたイエスの孤独が思い出された。
私の神信仰は、学生時代に培った無神論・唯物論の上に築かれた建造物のようなものだったから、プルトマンを読んで打撃を受けると、神信仰という建造物は揺らぎ始め、その下から昔の無神論が浮上してくるのだ。
神が不在になった山野を眺めていると、「廓然無聖」という達磨の言葉が浮かんできた。達磨の言う通りだった。世界は、からりと一望の下に見通せて、どこにも超越者は存在しなかった。神のいなくなった山野は、蔽いが取れたように新鮮だった。それはサヤを払った刀のように見えたし、描き終えたばかりの細密画のようにも見えた。
私はブルトマンを読んでいる時に、神に関する過去のすべての思考や経験を頭に置いて読んでおり、従って読み終った時には、おのずから過去の神観念に総決算がつけられていた。その日まで、私は人が神の存在を意識しようとしまいと、神は客観的に実在すると考えていた。だが、私は内々危惧の念も感じないではいられなかったのだ。
光は確かにある。30代半ばに、私は、宗教的体験時に内的な光を見ている。だからといって、光の源泉を外部に求め、光の総括者のようなものを何処かに想定するのは行き過ぎではあるまいか。私は早く「安心」に到達しようとして、結論を急ぎ過ぎたのではないだろうか。
プルトマンを読んでいるうちに、私は自分の考えるような形で神は存在しないことを感じていた。万人を光被する神などありはしない。神は客観的な実在ではないのだ。世界のどこを探しても神はいないし、大部分の人間にとっては主観的にも客観的にも神は存在しない。
世界に対して決定的な態度転換を行った人間の内面にのみ神は出現する。真実はこれだけなのだ。この態度転換を持続する限り、神は内面にとどまるが、態度を変えれば神はたちまち消え去ってしまうのだ。
「神の国」は非世界的な世界であり、実際上何処にも存在せず、多くの人間は生きているうちも死んでからもこれに相会うことはない。私はブルトマンを読みながら、自分が態度転換を決行することを通して神と相会うような人間でないことを感じ続けていた。つまり私にとっては神は存在しないのである。以上が昭和45年の冬の朝、出勤途上で神の不在を発見するまでに、あらかじめ私の内部に用意されていた布石であった。
だから、「逆回心」は突然起った出来事というよりは、心内で既に進行していたことを確認したに過ぎなかったのである。
神が消え失せたのちに、当座の間、私が感じたのは解放感であって、その点、トルストイやポーポアールの場合とは事情を異にしている。
トルストイは、五十才の頃、彼自身が「停止の時期」と呼んでいる暗黒時代に突入した。はじめの状態は、病人が当初に感じる不快感に似ていた。病人は最初のうちは自分の不快感にはとんど注意を払わない。そのうちに、それが持続的な苦しみに変わる。トルストイは社会生活を継続することに倦怠感を覚え、そこから何の刺激も興味も感じないようになった。彼の精神生活は停止してしまった。世界が縁遠いものになり、よそよそしく、不吉に、気味悪く感じられるようになった。トルストイは「人生について最も真実なことは、人生には面白おかしいことなど何もないということだった。人生とはただもう残酷でばかばかしいだけのものである」と思った。こういう状態を二年間続けた後に、彼は立ち直って行く。
(つづく)