甘口辛口

変化する自己イメージ(1)

2012/11/11(日) 午前 11:09
変化する自己イメージ

テレビを見ていたら、「100分で名著」という番組で鴨長明の「方丈記」を取り上げていた。だが、どうやら、それは「方丈記」の部の最終回らしく、出席者たちはこの古典に関する各自の総括的な印象を語り合っていた。

それを聞いていて同感する箇所があった。出席者たちが、鴨長明は「すべてのものは変化する」という仏教の基本的なテーゼのなかに、個人の思想や人生観のようなものも含めていると語り合っていたからだ。人は体験的に、この世のあらゆる存在・現象が移り変わることを知っている。だが、高僧が長い苦行の果てに獲得した「悟り」のようなものは、変化することなく死ぬまで続くと考えている。だが、そう考えてしまっては、「すべてのものは変化する」というテーゼと矛盾することになる。

私が観察したところでは、すぐれた洞察力を持った思想家・評論家には相対主義者が多いように思う。そして相対主義者は、思想も人生観・世界観もすべて変化するものであり、いや、それらはむしろ変化すべきものだとさえ考えているらしいのである。

私が「100分で名著」の出席者に同感したのは、思想形成の基盤になる自己イメージもまた変化することを知ったからだった。

戦争中の私は、間もなく自分が戦場で死ぬことになるのを、たいして残念だとは思っていなかった。日本人は、こんな愚かな戦争で死ぬことを、ウソか本当か喜んでいるなどと語り合い、皆が皆、一億玉砕の覚悟でいるらしい。だが、戦争に同調できず、こういう国に生まれたことを身の不運だと考えていた私は、こうなった以上は、こちらもお付き合いで死ぬしかないが、オレは悲壮な顔で死にはしないぞ、笑って死んで行ってやるなどと考えていたのである。

戦争が終わってからも虚無的な気持ちは変わらなかった。自分はいずれ野垂れ死にすることになるだろう、結核という病気持ちだし、世間に合わせて生きて行く気は毛頭ないし、おまけに、あれはアカだと私の名前はブラックリストに載っている(私が、野垂れ死にする可能性は、実際にかなり高かったのである)。

そんなことから私は、死を恐れる気持ちは平均より薄いのではないかと、ずーっと考えていた。何しろ私は、在家仏教の信者になったり、神を信じたり、老子に惹かれたりしながらも、その間、一貫して意識の底で死を待ち望んでいたのだから。

40代のある日のことだった。

子供を連れて飯田市の動物園に出かけ、車輪式の回転展望台に乗った。展望車にはゴンドラ風の二人用座席がたくさんついている。子供と一緒にゴンドラに乗り込んだら、ゴンドラがゆっくり上昇を始める。ゴンドラが頂点近くになったとき、突然、私は強い恐怖にとらわれたのだ。これまで自分とは無縁の症状だと思っていた高所恐怖に襲われたのである。

全く、お笑いぐさだった。誰よりも死を恐れない人間だとひそかに自負していた自分が、誰よりも臆病者で、誰よりも死を恐れていることが明らかになったのである。

高所恐怖は、航空機に乗ったときにも現れた。

──退職後に念願だった三浦梅園の旧居を訪ねた。江戸時代の儒医だった三浦梅園の住まいは九州の国東半島にある。それで、名古屋から別府までの往復航空券を買って、飛行機で出発することにした。

前回、回転展望車に乗って恐怖に襲われたのは、自分にそうした症状があることを知らなかったからだった。症状が不意打ちに現れたから動揺したのだ。今度は、あらかじめ自分が高所恐怖症者であることを知った上で航空機に乗るのだから、恐怖心に対応する準備は出来ているはずだと考えたのである。

飛行機が動き出したときから、私は自身の内面に目をやり意識の下層に隠れている恐怖心が出現するのを監視していた。そして、意志の力で下意識に蓋をするようにして、恐怖心を押さえ込んでいた。飛行機は水平飛行に移り、順調に飛行している。やがて、恐怖の塊が下意識の底から水泡のように浮かんできて、意志の蓋を下からこづき、押し上げはじめた。

名古屋から別府まで恐怖感をなんとか押さえ込んだものの、そのことで疲労して帰りにはもう飛行機に乗る気がしなくなっていた。それで、往復の航空切符の「復」の方を解約して、帰りは新幹線にしてほうほうの体で帰宅したのであった。

(つづく)