「ハダカの美奈子」を読む(2)
美奈子が「アイツ」と呼ぶ元夫の、美奈子に対する暴力は激しさを増していった。だが、美奈子も負けてはいなかった。父親の暴力には反抗できなかったが、元夫の暴力はそれほど怖いとは思わなかったのだ。コイツなら大丈夫、いける。
彼女は「うっせんだよ!」と相手に掴みかかっていっては、叩き伏せられた。相手の暴力は、美奈子が気を失うか、彼女が抵抗を諦めておとなしくなるか、本人が殴るのに飽きて家を飛び出すかするまで続いた。男は、そうやって、思う存分暴力をふるった後で、打ってかわって異常な優しさを見せる。それがDV男の常套手段で、そうされると女は男と別れられなくなるのだ。美奈子もそうだった、夫に痛めつけられた後、彼に優しくされると、すぐに、相手を許して体を交えてしまうのだ。
それでも美奈子は、夫の暴力に耐えきれなくなって、一度は離婚をしたこともある。が、そのあとで夫にやさしくされて復縁し、一家を支えるためにキャバクラ嬢になっている。彼女は月に60万円稼いだこともあるし、何度か店でナンバーワンにもなった。だが、夫の浪費癖はやまず、それに加えて夫が彼女の親しい友達と浮気を始めた。暴力もひどくなって、妊娠中の彼女の腹を思いっきり蹴るようになった。それで、美佐子もついに二度目の離婚に踏み切っている。
そのくせ、彼女は夫が兄貴分を怒らせて豊田市にいられなくなり、埼玉県に引っ越したと聞くと、男を捜すために埼玉に出かけている。美奈子が夫と手を切る覚悟を固めたのは、彼が飲酒運転で人身事故を起こし警察に逮捕された時だった。
しかし、美奈子の手記によると、夫は警察から釈放されると、美奈子のところに尋ねてきたという。この夫をどうやって追い返したのか、彼女は説明していない。が、美奈子は夫の出現に恐怖を感じた。彼女は、正直に書いている。
<(私は)ホントに怖かった。アイツのことじゃなくて、また許してしまいそうなあたし自身が、怖かったんだ>
美奈子は、元夫を拒否する強さを作り出すために、最初は日記を書くことを考えた。日記の中に、自分の覚悟を毎日書き付けて行けば、夫の愛撫にも負けることがないだろうと考えたのだ。だが、日記は3日続けただけで挫折してしまった。そこで彼女は、自分の決意を入れ墨にして体に彫りつけることにした。背中に5人の子供の名前と、彼女が好きな蓮の花を彫り込んで置けば、夫に負けることはないと思ったのだ。
美奈子が入れ墨をする計画を母に告げると、母はいつものように、 「ふーん、いいじゃん」と賛成してくれた。
これで夫との縁を切る覚悟がついた。が、夫と繰り広げた泥沼のような夫婦関係の遺産として5人の子供が手元に残っていた。彼女は、子供たちを養っていくために「接骨院よこやま」の経営する「訪問介護ステーション」に就職し、介護士として働くことになる。彼女は、ここで林下清志と巡り会うのである。奄美大島での接骨院経営に挫折した林下は、「接骨院よこやま」に雇われ、整体師として働いていたのだった。
二人は、新年会の席で偶然隣り合って座り、互いに独りで子供たちを育てていることを打ち明け合った。林下は、「そっちは、5人か。ウチは8人だからなあ」といって、軽いノリで提案してきた。
「オレ、もう少しすると離婚して籍が空くから、そのあとよかったら入る?」
初対面で、しかも酒の席での提案なので、美奈子は最初は冗談ではないかと思った。
「マジマジ? 入るー!」
「お前、ホントか」
「うん、ホント、ホント」
こうした冗談のような対話から交際を始めて、二人は二ヶ月後にはもう結婚している。
女性週刊誌で確かめたところでは、林下清志が、「オレの籍に入る?」と問いかけるや否や、美奈子は二つ返事で、「入る、入る」と答えたことになっている。美奈子は、テレビの「ビッグ・ダディー」シリーズを見ていたから、林下一家の実情を十分に心得ていた。だが、林下清志の方は、美奈子に関する予備知識をほとんど持っていなかった筈である。初対面の相手に、「自分の籍にはいるか」と、いきなり求婚する林下清志の軽さにも驚くが、その求婚を即座に受け入れた美奈子の軽さ、軽率さにも驚く。そもそも彼女は、入れ墨までして男を断つことを決意していたのではなかったか。
この頃、美奈子の実家は分裂状態にあった。父は母と対立していただけでなく、美奈子とも金の貸し借りの問題で衝突していた。
<あたしの両親はすでに離婚していた。お母さんと弟は、あたしと子どもたちと一緒に豊田のアパート住まい。お父さんはひとり、別のアパートで暮らしていた。
お父さんから「貸して」 って言われるたびに渡していたお金を返してもらおうと思ったんだ。保険を解約したとかなんとかで、100万円近いお金が戻ってきたって聞いてたから、いまならきっと大丈夫だろうって。
本当は10万円以上貸してたんだけど、お父さんもお金がなくて大変だろうし、
「5万円でいいから返してくんない? ちょっと引っ越しにまとまったお金がいるんだ」
って妥協して。
本当にキッかったから、このときばかりはかなり必死だった。でも、お父さんはそれを
聞いてすっとぼけたうえにキレてきた。
「なんだよそれ‥そんなの知らねーよ!」
「えつ‥ちょいちょい貸してたお金あったじゃん!」
「はあ‥知らねー。うるせえんだよ!」
あたしも腹が立って、ついつい怒鳴り声の応酬。
「なんだよその言い方──困ってるって言うから、あたしだって生活が苦しいのに、なんとかひねり出して貸してあげたり、食料品だってわけてあげたりしてたのに──」
・・・・ 売り言葉に買い言葉。口論の末に、
「もういい! アンタの娘なんてやめてやる‥」
ってつい叫んでしまった。お父さんも、
「オレだってお前の親なんかやめてやるよ!」>
美奈子の本を読むと、父親は、家族のすべてから見捨てられ、愛知で一人暮らしをしていることになっていたが、実は月に一度ほどずつ、母親を呼び寄せて会っていたというから、縁を切ったとか、切られたとかいいながら、この家族関係には一般の理解が及ばないところがある。父親は、最後には孤独死していて、美奈子の弟が父を訪ねて行った時には、その遺体はミイラ化していたという。
美奈子は、「お父さんが死んだのはあたしのせいなんじゃないか」と、自分を責め続けている。
「振り返ってみれば、あたしが家出したり悪いことをしたりすることで、お父さんも暴力がやめられなくて、それでお母さんもストレスが溜まって借金なんかして、それで二人がバラバラになつたのかなって。もし、あたしさえしっかりしていれば、いまでも二人は仲良く暮らしていて、お父さんは死ぬことなんてなかったんじゃないだろうか。家族の仲をグチャグチャにしたのは、あたしなんじゃないか…」
美奈子は、父親の携帯番号をどうしても消すことが出来ないので、自身の携帯電話のメモリーにその番号を残している。そして、辛いこと悲しいことがあると、父親に電話をかけると語っている、その度に「この番号は現在使われておりません」という返事が返ってくるけれど。
今度、林下清志と離婚することが決まったときも、彼女は父に電話している。「ねえお父さん、助けてよ」とすがるように声をかけるが、やっぱり返事は返ってこなかった。