高橋和巳の「悲の器」(2)
「高橋和巳全集」が届いたので、段ボール箱に詰め込まれた20冊の大型本をえっちらおっちら二階に運び上げた。箱を開いてまず、「邪宗門」を取り出してみる。二段組みの本だと一冊で済んでいるところを、全集本では上・下の二冊になっている。活字もそれに応じて大きいし、行間にも余裕がある。これなら、楽に読めそうだった。
ほっとして、「邪宗門」の上巻を書見器に装着して読み始めたが、30分もすると眼が疲れてきた。原因は明らかだった。思わず、舌打ちをする。うすめたインクを使っているので、印刷された文字がくっきり紙面から浮かび上がってこないのである。老人が楽に新聞を読むことが出来るのは、濃いインクで文字を印刷してあるからなのだ。
未練がましく、数日間、書見器で「邪宗門」を読み続けた。が、結局あきらめて二段組みの方を電子書籍にして、32インチのテレビ・モニターで読むことにした。ベットに仰臥してノートパソコンで電子本を読むという手もあるが、電子本はやはり大型のモニターに取り込んで読んだ方が快適なのである。
購入したばかりの「高橋和巳全集」が傍らにあるというのに、改めて別の全集を買うのは残念だ。けれども、こうなれば二段組みの全集を別に購入して、作品のすべてを電子化するしかない。本を電子化するには、細字の活字をぎゅうぎゅう詰め込んだ二段組みの本の方がいいのである。
インターネットの目録で調べると、書架にあった二段組みの本は、やはり河出書房新社が「高橋和巳作品集」(9巻)として出版したものだった。これを古書店から一括購入しても、価格は僅かに4,300円しかかからない。東大生が読む本のトップになり、全共闘系の学生たちから聖典のように扱われていた高橋和巳の本も、今ではすっかり忘れられた存在になり、古本の価格も激安になっているのだ。
──二段組みの作品集が届いたので、まず、「悲の器」を電子化した。まだ、「邪宗門」は読了していないので、「悲の器」を読みはじめれば、ふたつの作品を同時並行して読むことになる。そうやって二冊を並行して読んでみると、高橋和巳特有の小説作法のようなものが明らかになってくるのだ。
一般に、小説が何を動力として進展するかといえば、登場人物の特異な性格であったり、人物間の葛藤だったりする。だが、高橋はそれよりも登場人物の思想と、それが他者の思想と衝突する様態を作品の推進力にするのである。登場人物の性格を重視することになれば、背景としてそれぞれの人物の生育環境や彼らの現在置かれている生活状況を縷々描くことになるが、思想を重視すればその時々の社会体制や思想史的状況を洗い出さなければならない。
そこで彼は人物の性格描写をそっちのけにして、現代史の史料とそれにからまる精神史関係の資料をずらずら配列して、作品を歴史史料だか社会学概論だか分からないようなものにしてしまう。例えば大学の法学部教授を主人公にした「悲の器」は、作品の中にヘーゲル、イエルネック、ラードブルッフ、滝川幸辰、横田喜三郎、熊倉武諸らの理論・学説を次々に盛り込んで読者を煙にまくのである。
彼の二つの作品を読み比べているうちに、なぜ自分が高橋作品の中身を覚えていないのか分かってきた。彼の作品を初めて読んだときには、私は既に30代になっていたが、彼が小説の下地や背景にしている哲学概論的・社会学概論的な資料にはそれなりに興味があり、それらの解説的な文章が登場人物の性格を背後から浮かび上がらせているようにも思われてその博識に大いに感心していたのだった。
だが、それから何十年もたてば、それらの概論的解説的な部分はことごとく記憶から消え失せ、脳裏には登場人物の小説的な動きだけが僅かに痕跡を残すだけになる。だから、私はいくら努力しても作品の中身を思い出すことができなかったのであった。
「悲の器」を電子本にして改めて読み直してみると、これは知名の学者が破滅していく話だった。作品は、主人公の正木典膳による「告白」という形式を取っていて、本を開くと、冒頭に早くも彼の破滅のきっかけになった新聞記事が当の正木典膳の手によって、引用されている。
妻をはやく喉頭癌で失った某大学法学部教授正木典膳(五
十五歳)は、ひさしく家政婦と二人、不自由な暮しをしてい
たが、このたび友人である最高裁判所判事・岡崎雄二郎氏の
媒酌で、某大学名誉教授・名誉市民栗谷文蔵文学博士の令嬢
栗谷清子(二十七歳)と再婚するはこびとなった。ところ
が突然、家政婦米山みき(四十五歳)により、地方裁判所に対
し、不法行為による損害賠償請求(慰謝料六十五万円)が提起
された。
ああ、こういうストーリーだったのかと思ったが、これだけでは未だ細部を思い起こすことが出来ない。
(つづく)