やっぱり、トルストイ(2)
トルストイを再評価するようになってからというもの、古本屋めぐりをしていてトルストイの本を見つけたら、すぐ購入するようになった。仮綴じのトルストイ全集は実家のものだから、自分が独立して家を出るとき、これを持ち出すことを遠慮したのだった。
だが、古本屋からバラバラに買っていたのでは、本当に読みたい本に遭遇することは滅多にない。それで、思い切ってトルストイ全集を買うことも考えてみたが、数年前に高い金を出してドストエフスキー全集を購入したものの、買ったきりでその後全然読んでいないことなどを考えて、何となく、全集を注文することに躊躇していた。
小林秀雄は全集を買って読むことを勧めているけれども、経験によれば、好きな作家の全集を購入すると、かえってそれらの本を手に取ることが減ってしまうものだ。その作家の作品を何時でも読むことが出来るという安心感があるから、他の本を読むのを優先してしまうのだ。
中年以後、愚老のトルストイ評価は高くなって行く一方なのに、その全集を買うことをためらっている。こんな風にして時間がいたずらに流れていった。そして定年がやってきたのである。
退職して畑に建てた家に引っ込み、隠者のような生活をはじめてから、インターネット古書店を通して、作家や評論家の全集を買い込むことが増えた。全集を購入すると、かえってその作家のものを読まなくなることを百も承知で、次々に多種多様な全集を取り寄せることになったのだ。その不可解な心事を明かすならば、こういうことなのであった。──関心のある著作家が数多くいるのに、このままだと、彼らの著書に十分触れることなく死をむかえることになる、これではあまりにも無念ではないか、生きているうちに敬愛する著者の作品を心ゆくまで読んでおきたい、さもなければ、この世に生まれてきた甲斐がないではないか・・・・・
そして、次々に購入する全集の中に、とうとうトルストイ全集も加わることになったのだった。
古書店の目録で調べると、トルストイ全集には岩波書店刊行のものと、河出書房新社刊行のものがある。岩波書店のものは昭和5年刊行とあり、もう80年近い過去に出版されたものだから、購入するとしたら戦後に出版された河出書房版のものにすべきだった。が、あえて岩波書店版のものに決めたのは、訳者が昭和初頭に活躍した米川正夫を中心にしているに違いないと思ったからだった。愚老は、ロシア文学の翻訳者として、米川正夫の訳文に馴染んでいたのだ。
しかし、この選択は誤っていた。半世紀以上古書店の倉庫にしまい込まれていたらしいこの全集の一冊を開いたら、本の中から一匹の紙魚がはい出てきたのだ。これには、すっかり仰天してしまった。古本とのつきあいは長いけれども、紙魚を見たのは初めてだったし、紙魚に食われている本を買ったのも初めてだった。慌てて22冊の本をハコから取り出してプレハブの小屋に並べ、10日間ほど陽光にさらし、紙魚を駆除した。それから、そのうちの一冊を書見器に架けて読んでみる。
そうやってみて初めて分かったのだが、この全集は多くの読者から読まれたらしく、ページの隅が手擦れのため柔らかくなっていて、手垢で薄く汚れているのである。それはそれでよかったが、たくさんの人間の手から手に渡っている間に、活字のインキが薄れてきたと見え、読むのにやたらに目が疲れるのだ。そこで、やむを得ず「自炊本」にして、テレビの32インチ・ディスプレイで読むことになる。
まず、本を裁断機でバラバラにして数十枚ずつ、ScanSnapを使って両面コピーする。
すると、またもや問題が起きた。両面コピー機は、紙を一枚ずつコピー装置に引き入れて両面を写し取り、パソコン内に取り込んで行くのだが、作業を開始してみると、紙が2枚重なったまま装置に中に引き込まれてしまう。すると、それを察知して機器が自動的にストップしてしまうのである。
こういうときには、紙が重ならないように、あらかじめ紙を二度三度ぱらぱらさせて紙と紙を分離しやすいようにしてやる必要があるのだが、いくらそういう操作をしておいても、紙が重なったまま装置に引き込まれる。岩波書店刊行の本は、これまでこんな問題を起こしたことがなかった。けれども、これも本が長年倉庫の中で山積みにされていたせいかもしれなかった。
悪戦苦闘の末に「イヴァン・イリッチ」を電子化しただけで全集を自炊本化する作業を諦めてしまった。その間にも「フロイト著作集」8冊を購入してこれを電子書籍化する作業などが割り込んできたからだった。
こんな風にして、また時間がいたずらに流れて、先日、BS放送で「トルストイの大地」という番組を見ることになったのであった。
(つづく)