甘口辛口

ホームレスが作った短歌

2014/2/28(金) 午前 11:23
ホームレスが作った短歌

朝日新聞の短歌欄にホームレスが作った短歌が載っていた。

この欄の常連作者には、アメリカの監獄に収監されている日本人がいたりするから、ホームレスの作品が載っていても不思議はない。その二首のうちの一つは、次のような短歌だった。

 途方もなく空広かりきリュック背負い
     ホームレスの道踏み出ししとき

この作品を一読して心を打たれたのは、愚老も長い病気の果てに、ホームレスとして生きることになる自身の未来図を思い描いたことがあるからだった。自分が生家を捨て、ふるさとを捨て、何処とも知れぬ場所で生きるさまを想像したら、世界がこの作者の感じたように果てしもなく広いものに思われてきたのだった。

だが、自分が、「リュックを背負って家を出る」だろうことまでは考えていなかった。ホームレスが家を出るときには、他に何も持たなくても、着替えの下着くらいは用意するだろうし、下着を入れたリュックサックなどは、きっと、野宿をする時、まくらのかわりになって便利に違いない。愚老が、そこまで考えていなかったということは、あの頃の自分が、まだ真剣に問題を考えていなかったことを意味している。

そんなことより、いま、ここで検討すべきは、家を捨てて未知の世界に身を投げ出すことを考えた瞬間に、それだけで、意識内の世界が一挙に広がったという事実についてなのだ。

仏教徒は悟りを得るために出家遁世するし、篤信のクリスチャンも信仰を深めるために家を捨てて修道院や尼僧院に入る。出家すること、家を捨てることは、おのれが生きる世界の大なること、深きことを新鮮な目で見直すために是非とも必要な作業なのである。

ネルケ無方は日本にやってきて、寺院の僧侶らが葬祭業者になってしまっていることに呆れている。これは僧侶であることが家職化してしまっていることからきている。彼らほど家に縛られ、狭い世界に生きているものはいない。僧侶は、その昔、家(寺院)を持たず、従って檀家も持たず、雲や水のように流れ漂いつつ生きていたから「雲水」と呼ばれていた。仏教に触れたアメリカの大学生たちも、家を捨てて各地をさすらい、乞食の生活を始める者が多いという。

しかし、いくら道を求める熱い心を持っていたとしても、すべての人間が家を捨てて雲水になる訳にはいかない。人間は我執・我欲と共に、慈心・人道精神を持つ二重人格的存在者なのだから、家庭人として普通の日常を送りながら、我執・我欲の側に集中しがちな内面的エネルギーを慈心・人道精神の側に振り向ける工夫を続ければいいのである。

いや、工夫も必要ないかも知れない。

我欲に汚れた自己を、バックライトのように背後から照らしている慈心の光を感じながら生きていたら、それでいいのである。その光は、あるのか、ないのか分からないほど微かだが、その微光は確かに存在するからだ。