自分を相対化すること(2)
「自分を相対化する」といえば、周囲の人間との関係において、自らを相対化することだろうと考える。われわれは、そう考えて人々の前で自分を抑制し、謙遜な気持ちで生きようとするが、なかなかうまくいかない。それは、どんな人間にも、仲間よりすぐれている点が一つや二つあるからであり、視点をそこにおいて周りを見回せば自分が衆にぬきんでた存在になるからだ。
自分を衆にぬきんでた存在と思いながら、ことさらに謙遜してみせれば、それは「卑下自慢」ということになって、いっそう見苦しいことになる。自分を相対化しようと思ったら、「対人関係における相対化」を意図するのではなく、「絶対者との関係における相対化」を考えるべきなのだ。
仏教徒にしろ、キリスト教徒にしろ、誠実な信者たちは自己を相対化して生きていながら、人に不自然な印象を与えない。なぜだろうか。
彼らは、自分を神や仏の前に置いて、絶対者との関係おいて自分を相対化しているからなのだ。前回、「神を絶対化する者は、自分自身を絶対化するようになる」という徐氏末弟の言葉を引用したけれども、そうした信者は神を信じているうちに自分が神と昵懇な関係になり、自分が神と同格の存在になったと錯覚してしまうのである。
だが、篤信の信者は神を信じることが深くなればなるほど、神の前で自身が微小になって行くことを痛感する。彼は、神との関係において自分を相対化することで、人間同士の関係においても自然に自己を相対化するようになっているのだ。
では、篤い信仰を持たないものは、自己を相対化できないのだろうか。
ゲーテ全集を読んでいたら、その中にトーマス・マンによるゲーテ論が採録されていた。それによると、ゲーテは大自然の前で自分を相対化した作家だった。
ゲーテは、詩人、劇作家、小説家であると同時に、自然科学者、政治家、法律家であり、いずれの分野でも卓抜した能力を発揮している。彼が万能の才を発揮したのは、目の前に広がる総体としての自然を選り好みすることなく悉く受け入れ、その法則を把握しようとしたからだった。彼は自分自身についても、良心と背徳、理知と感傷、善と悪、それら矛盾するものの一切を、こだわりなく全面的に受容している。
「シラーは闘い、ゲーテは育つ」という言葉がある。ゲーテは大樹が成長するように、地下深くに伸ばした根で清らかな地下水から動物の腐肉まで、ありとあらゆるものを吸い上げて大きく育っていったのだった。彼の目からすると、宗教文学や浪漫主義文学など傾向性の強い文学は、「病院文学」に他ならなかった。アメリカのホイットマンも、自然の全体相を受容し、その深奥に迫ることで自分を相対化した詩人だった。
問題は自己についても、人間社会についても、自然界についても、その総体を受け入れることなのである。個人の悪徳、社会の不合理、自然が内包する天変地異、それらと戦いつつも、そのすべてを肯定すること、これが自己相対化ということなのである。
この世は、無慈悲で残酷なところであり、自身も悪徳の坩堝のような人間だが、生まれて来てしまった以上は、観念して自己と世界のすべてを肯定し受容するしかない・・・・これが自己相対化の内実かもしれないのだ。そして、そのように諦めた瞬間に、道元が予言したようにこの世は「尽三千世界是一顆真珠」に変わるかもしれないのである。
(追記)道元の言葉を、うろ覚えのまま記したが、そのうちにあれは
「十方世界是一顆明珠」ではなかったかという気がしてきた。
もし、この方が正しかったとすると(原典にあたれば両方と
間違っているかも知れないが)記憶にも深浅の層があるかも
しれない。