三四郎と小泉純一(2)
夏目漱石の弟子たちは、「先生は奥さん以外の女性を知らなかったのではないか」と語り合い、先生は「一穴主義」だと言い交わしていたという。だが、それ故に漱石には、妻以外に密かに愛していた女性がいたという風説も拡がっていて、その女性は漱石の友人の妻だったとか、嫂だったとか、いろいろと取り沙汰されている。だが、漱石が最も深く愛していたのは、日根野れんだったと思われるので、漱石とれんとの関係に絞って問題を見て行くことにする。
漱石は子供の頃、実家の夏目家から離脱し、塩原家の養子になっている。けれども、その塩原家は難題を抱えていた。維新後に浅草の戸長になっていた養父が、職務上相談に乗ってやっていた元旗本の未亡人日根野かつと情交関係を生じたので、怒り狂った塩原の妻は漱石を連れて家出をしてしまうのだ。
家を飛びだしたものの、養母と漱石二人だけの暮らしは貧しく、三度の食事は茹でた大豆ばかりという有様だった。ついに養母も観念して漱石を夫に返して正式に離婚することになる。漱石が養母と別れて養父の元に戻ってみると、未亡人だった日根野かつが後妻として娘のれんと一緒に養父の家に入り込んでいた。
漱石が養父の家で日根野母娘と同居していたのは、それほど長くはなかった。実父と養父が対立して、実父が漱石を自宅に引き取ってしまったからだ。しかし、漱石は養父の長男ということになっていて、名義上は塩原家の戸主だったから、漱石は実家に戻ってからも「塩原金之助」を名乗り、実家と養家の間を行ったり来たりしながら生活することになる。漱石自身が、「海のものも食い、山のものにも手を出し」と表現していたように、彼は両家から半々に扶養されながら成人するという奇妙な立場に置かれることになったのであった。
れんは漱石より一歳年長で、二人は同じ小学校に肩を並べて通っていたから、彼らは互いに幼馴染みの親しさを共有していた。美しくて利口なれんに惹かれていた漱石は、二階から階下にいるれんを鏡を使って太陽の光で照らしたり、帯留紐の先端の房のようになった部分でれんの首筋をくすぐったりしていた。が、れんが成長するにつれて、漱石は彼女に手も足も出せないようになった。れんの美貌が評判になり、ある大手の茶舗が宣伝用に彼女の写真を使うほどになったうえに、養父らが漱石を完全に自家のものにするために漱石とれんを結婚させようと企み始めたからだった。
もともと異性に対して極端にシャイだった漱石は、れんとの許婚話が浮上してからは、ろくに彼女と口をきけないようになった。それが余りにもひどいので、養父もれんの母親も二人を結婚させることを諦め、漱石の代わりに、漱石の三番目の兄和三郎とれんを結婚させようと考えはじめた・・・・・
れんが最終的に結婚することになったのは、陸軍中尉平岡周造だった。この時、れんは19歳、平岡は25歳だった。母親の日根野かつからすれば、漱石はまだ18歳の大学生で先行きどうなるかハッキリしない。そんな漱石より、平岡を入夫させた方がすべてにおいて具合がいいと思われたのだ。
れんと許婚の関係にあると信じていた漱石は、れんが平岡と結婚したことにショックを受け、かなり荒れたといわれている。だが、彼が思い直して、れんの新所帯を訪問する気になったところを見ると、漱石は自分を見捨てたれんに腹を立てながらも、れんと縁を切ることが出来ず、内心で彼女への断ちがたい想いを残していたのである。
後年の漱石作品「道草」には、彼がれんの住まいを訪ねたときの光景が描かれている。座の中心になっているのは、鏡台に向かって、白い肌もあらわに髪をなでつけているれんであり、隊から帰ってきた平岡と訪問者である漱石が諸肌をむき出しにした女の姿態を意識しながらそれぞれ離れた場所に座っている。平岡は長火鉢の前であぐらをかきコップで冷酒をぐいぐい飲んでいるのに対して、漱石は自分の取り分として分け与えられたにぎり鮨を皿からつまんでせっせと食べている。この時、漱石はその場の居たたまれない状況に責め立てられながら、背中を丸めて小さくなっていたのである。
れんは平岡と結婚して長女を生んでから、当時、女性にとって最高学府だった東京高等女学校(お茶の水女子大の前身)に入学している。同級生には女流作家になった三宅花圃がいて、れんは常に彼女と首席を争っていたという。
こういう女性だったからこそ、れんは自分に対して臆病だった漱石を揶揄し挑発するために肌をあらわにして見せたのであった。彼女はまた、夫の平岡がそうしたれんの魂胆を見て取って怒りを感じ、それで冷や酒をぐいぐい飲んでいることも知っていた。れんはそれを怖がるどころか、内心でおもしろがっていたのだった。彼女は、自分が作り出したその場の空気を楽しんでいたのである。
「道草」に記されたこの場面が物語るように、容貌に自信があり頭もいい女性は、その余裕の現れとして男に遊戯的な姿勢で対する傾向がある。女にとって一番面白い遊びは、日頃威張っている男たちを指先一つで思うように操り、自在に怒らせたり笑わせたりすることなのである。
「三四郎」の主人公を奔命に疲れさせた里見美禰子は、この種の余裕派的遊戯的なタイプの女性だった。漱石は女性にこのタイプがあることを日根野れんを通して知り、それを里見美禰子として作品の中に書き込んだのである。漱石は「三四郎」の後日編として「それから」を書いている。「それから」のなかにも日根野れんは再び姿を現すのである。
(つづく)