甘口辛口

三四郎と小泉純一(4)

2014/10/23(木) 午後 5:39
三四郎と小泉純一(4)

日根野れんは、明治41年6月2日に死亡している。れんは、これより23年前19歳で平岡と結婚しているから、亡くなったときの年齢は42歳前後ということになる。

彼女は結婚後は夫の任地だった広島で暮らしていたが、日露戦争が始まり平岡が出征すると、自分も赤十字看護婦として召集され、陸軍病院に勤務していた。あのころ、将校の妻たちは平時に講習を受けて看護婦の資格を取り、戦争になったら召集されて軍の病院で勤務することになっていたらしい。れんは元々余り健康ではなかったから、戦争が終わって帰宅すると、それまでの激務の影響で程なく倒れたのである。病名は結核だったといわれている。

れんの死を知った漱石は、その十日後に「文鳥」という小品を朝日新聞に掲載している。そのなかに、次のような一節がある。

<昔し美しい女を知って居た。此の女が机にもたれて何か考えている所を、後から、そっと行って、紫の帯上げの房になった先を、長く垂らして、頸筋の細いあたりを、上から撫で廻したら、女はものう気に後を向いた。其の時女の眉は心持八のの字に寄って居た。
それで眼尻と口元には笑が萌して居た。同時に恰好の好い頸を肩迄すくめて居た。文鳥が自分を見た時自分はふと此の女の事を思い出した。此の女は今嫁に行った。自分が紫の帯上でいたずらをしたのは縁談の極った二三日後である>

これが事実だったとしたら、漱石が紐の房でれんにいたずらしたのを少年時代のことだと思っていた愚老は、重大な勘違いをしていたことになる。

通説によれば、れんが平岡と結婚したとき、漱石は荒れ狂って精神異常を疑われるような行動に出たとされている。だが、「文鳥」のこの部分を読めば、漱石はれんの結婚が決まってからも、普段と同じ調子でれんにいたずらを仕掛けていたのである。同じく通説によれば、思春期に入ってからの漱石は、れんの前では物もいえないほど固くなっていたという。ところがこれを読むと、漱石とれんは成長してからも仲間同士か姉弟のような親しい関係にあって、漱石がいたずらを仕掛けてきても、れんは姉のような微笑を浮かべて軽く受け流していたのである。

「文鳥」を読んでいると、こんな想像さえしたくなるのだ、れんは、平岡との縁談が持ち上がったときに、漱石に相談しているのではないか、と。

・・・・「母や義父は、しきりに平岡との結婚を勧めるんだけれど、どうしたらいいかしら」と、れん。
漱石「どうしてオレに相談するんだい。自分の気持ちは、もう、決まっているんだろ?」
れん「あなたは、そんなふうに思っていたの? 私たちは許嫁として育てられてきたのよ。これは、あなたの気持を無視して、私だけの一存で決められるような問題ではないのよ」

ここで、漱石は自分の気持ちを明確に伝えるべきだった。が、れんの将来、そして養父母の今後を考えると、平岡の方が自分よりも優位に立っていることは認めざるをえなかった。

漱石「婚約といったって、塩原家と夏目家の間で正式に取り決めた話じゃないだろう。昔、両家の間で、世間話の折りに、そんな話も出たといった程度のことなんだ。オレは、れんちゃんを自分の許嫁者だと思ったことなんて、一度もないよ」

れんは、ここでひたと漱石を見つめたに違いない。

れん「それ、本当なの? あなたは、一度も私と結婚しようとは思わなかったの?」

漱石は、「ああ、なかったさ」といった後で、冗談めかして「れんちゃんと一緒になったら、『姉さん女房』の尻に一生敷かれそうだからね」と付け加えたかもしれない。

こうしたやりとりがあった後に、れんは平岡との結婚に踏み切ったのだから、縁談の決まった二、三日後に、二人の間で何事なかったかのように帯紐の房によるいたずらが生まれたのも自然なことだった。二人はそれから、れんが亡くなるまでつかず離れずの関係で接触していたと思われるが、その両者の間には目に見えない緊張が横たわっていたのだ。そのことは「道草」のなかの漱石が平岡宅を訪問したときの描写でも明らかである。

漱石がれんへの愛を公然と語るようになったのは、れんと死別してからだった。
れんの死後、彼女への思い出を「文鳥」に書いた漱石は、れんの49日忌に彼女を偲ぶ俳句を作っている。
  
   まのあたり精霊来たり筆の先

れんのことを文章にして書かずにはいられないのは、死せる彼女の精霊がそうさせるからだというのである。
  
漱石はれんに語りかけるようにして「夢十夜」「永日小品」を書いている。そして、長編小説「三四郎」に里見美禰子として登場させ、最後に「それから」では彼自身との関連でれんを三千代として登場させている。

漱石は、「それから」の代助が三四郎のその後と関係があるような説明をしている。だが、これは韜晦のための方便であり、本当のところ、「それから」は自分が平岡の手かられんを奪い返すシナリオとして書かれたのである。

代助は、愛する三千代を平岡に譲っている。漱石も頑張ればれんを妻とすることが出来たにもかかわらず、手をつかねて愛するれんが平岡と結婚するのを座視していた。これは漱石がれんを平岡に譲り渡したのと同じなのである。漱石はれんに死なれて、もう彼女を取り戻す方法がなくなってから、彼女を平岡から奪還するストーリーとして「それから」を書き、そして、奪還したれんと二人で営む夫婦生活はかくあろうかと想像して「門」を書いた。

「三四郎」「それから」「門」の三部作は、漱石が実現し得たかもしれない人生、いや、実現すべきだった真実の人生について描いたものだった。

──森鴎外は離婚した先妻の死を告げられたとき、一日中、家にこもって沈思していた。漱石はれんの死んだ日は、訪問客があったにも拘わらず、沈黙を守って何事も語らず、後で相手に弁明の書簡を送っている。