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日本への違和感(2)
2014/10/31(金) 午後 0:48
山本七平の「ある異常体験者の偏見」を読んで啓発されることが多かったが、なかでも日本軍が戦争中に使用していた欠陥兵器について触れている箇所に注意をひかれた。
以前に愚老は日本軍の戦車について書いたことがある。松本市に住んでいた頃、戦車が一台やってきたので、当時、軍国小学生だった愚老は一日中その戦車の後をついて回った。ところが、その戦車たるや道路上を動き始めて暫くすると、直ぐに故障を起こしてストップしてしまうのだ。すると、戦車の中から戦車兵がバラバラと出てきて、点検・修理を始める。そして、やっと動き出したと思ったら、百メートルほど行って又故障。そんなことばかり繰り返して、戦車が目的の実弾射撃場にたどり着くまでに一日かかったのであった。
こちらが中学生の頃になると、日本の戦車も実戦で使えるようになった。日中戦争が始まると、西住戦車長が軍神に格上げされるなど、戦車が脚光を浴びるようになったものの、その戦車が欠陥をさらしたのは、ノモンハン事件だった。この戦闘は、南進論と北進論が対立していた日本軍上層部が、論争に決着をつけるために行った実験戦争だったともいわれている。
愚老は、当時、この戦争に従軍した新聞記者の手になるルポルタージュ本を読んだことがある。それによれば、対戦相手のソ連軍航空機は日本空軍によって片っ端から撃墜され、戦争は日本の圧倒的勝利のうちに終了したと書かれていた。だが、真相は、全く逆だったのである。なるほど、制空権の点で最初は日本が優位に立っていたが、肝心の地上戦で日本は最初から最後まで無惨な敗北を喫し続けていたのである。
ソ連の戦車は快速で、45ミリ砲を装備していた。これに対して日本の戦車は37ミリ砲搭載だったから、両軍の戦車隊が正面衝突すると、ソ連側の砲弾は日本側戦車の車体を簡単に貫通するのに対し、日本側の砲弾は跳ね返されて勝負にならなかったのだ。砲撃戦でも同じだった。ソ連側の砲弾は遠くまで届くので、ソ連軍は日本の砲弾が届かない場所まで陣地を後退させ、そこから日本の砲撃陣地を攻撃して壊滅させた・・・・・
惨敗を喫した大本営は、敗北の責任を前線指揮官らに負わせて自決を強要し、捕虜になった将校が捕虜交換によって戻ってくると、これを銃殺などして責任転嫁を試みる。そして北進論を断念して、南進論に切り替えるのである。太平洋戦争でも、日本の戦車は使い物にならず、地面に埋めて保塁のかわりしたという。
ここで思い出すのは、中学時代に聞いた山梨高等工業学校長の講演なのだ。この校長は中学生が高等工業学校へ進学するようPRするために来校し、講堂で全校生徒に講演したのだが、かなり思い切った話をして帰っていった。日本の工業技術がいかに遅れているかの実例として、ある運送会社の話をしたのである。
その会社には、たくさんのトラックがあったが、出勤してきた運転手たちは日本製の新車よりも、ぼろぼろになったアメリカ製のトラックに乗ろうとして競争しているというのだ。その理由というのは、「残念ながら、ピカピカの日本製の新車より、10年前に購入したアメリカ製のおんぼろトラックの方が、故障しなかったからなんです」
戦争中は日本の「科学」がいかに進んでいるか、そしてその「科学」によって作られた飛行機や軍艦がいかに優秀であるかという自慢話ばかりを聞かされていたため、講演を聞いていてアレ、なんだか変だぞと思ったものだった。
「ある異常体験者の偏見」には、「世界に冠たる優秀なわが兵器」がいかにお粗末なものだったか歯に衣着せぬ調子で書いてあったから、注意をひかれたのである。
山本七平は砲兵将校だったから、日本軍の大砲についていろいろと証言している。「太平洋戦争のときに御自慢の兵器だった」日本の大砲が、実はフランスにおいて大正11年の段階ですでに旧式になっていた大砲を模造したものだったというのだ。山本はいう。
<欠陥兵器を次々にあげて行けば際限ないが、あまり長くなるので、陸軍の重爆隊の生残りの言葉を収録してこの稿を終ろう。
「新聞には出なかったけどなあ、重慶・昆明の爆撃はひどかったよ。日本の高射砲は絶対にあたらネーが、中国のは米国製でナァ、よくあたりゃがるんだ。一回行けは八機は落された。重爆ってのは九人乗ってたんだぜ。そのたびになあ、8×9=72人の、遺骨なき部隊葬よ」>
愚老も東京で何度もB29機による空襲を見て来たが、日本軍の高射砲が米軍機を撃墜する場面を一度も見たことがない。それでも、ある時、B29機を一機撃墜したことがあったらしく(こちらは、その場面を見ていなかった)、それが珍しいことだったので新聞記事になり、高射砲部隊の隊長の談話も載っていた。隊長は記者から褒められてかえって恥じ入るように、これまで米機を撃墜できなかった理由を弁解をしていた。
故障が多く、命中精度が悪かったのは大砲ばかりではなかった。機関銃の故障も多く、山本七平は安岡章太郎と対談して聞き出した話を紹介しているが、それによると一個中隊に4挺支給されている機関銃のうち三挺が作動することは皆無に近かったという。すると、4挺のうち常時2挺以上が故障していたということになる。だから、軽機関銃の名射手とは射撃のうまい人間ではなく、修理のうまい人間のことだったのである。
機関銃は連続発射で銃身が熱してくるから、モリブデン鋼という特殊鋼を使う。だが、日本製はこの材質が悪かったため直ぐに過熱してしまう。それで長時間連続発射が出来なかったという。
それより問題なのは、歩兵の使用する小銃だったのではないだろうか。
日本軍は明治38年に作られた38式小銃を使用していたが、これは大きくて重く、しかも単発式の小銃だった。一発発射するごとに、引き金を改めて引く必要があり、しかも弾丸は5発しか装填できなかった。だから、5発撃ったら射撃をやめて新たに弾を装填し直さなければならない。この時期、ほとんどすべての国の歩兵には軽い自動小銃が与えられていて、30発まで自動で連続発射出来た。だから、両軍の歩兵が近距離で弾を撃ち合うような場合、日本軍はとても相手に対抗できなかったのである。
(つづく)