謎のスパイM（６）
１９５２年（昭和２７年）德田球一は病気で倒れて入院することになった。救急車が来たときには、德田の意識はなかった。糖尿病にかかっていた彼は、脳卒中の症状を示し始めたのだ。この時の状況について、伊藤律は「回想録」のなかに、こう書いている。
＜(德田は)救急車が来た時はすでに意識不明で担架で運び出された。モスクワ土産の着古した綿パジャマ姿だった。担ぎ出される時、私は思わず徳田に頬ずりした。すると野坂が押しのけ、「これ、病人に何をする！」と叱った。私は悲憤の涙をこらえて、大門前で救急車に担ぎ込まれる徳田を見送った＞
德田の入院を機に、｢北京機関｣内の勢力関係は一変し、德田＝伊藤路線に代わって野坂＝西沢路線が優位を示すようになるのだが、德田が担架で運び出されるときに、伊藤律が走り寄って德田に頬ずりをしたという部分に異常なものを感じる。伊藤律は、「常習的な媚態者」だったのではないかという疑問である。
愚老は、作家水上勉の自伝につづいて哲学者中島義道の自伝を読んでいるうちに、自然に｢常習的媚態」という言葉を思い浮かべた。この二人は、異性の前に出たとき無意識に媚態を示してしまうため、この媚態を感受した女たちから積極的な誘いを受けてきたと告白している。伊藤律も女性関係が乱脈で、亡命前の党内で「伊藤には１０人の妻がいる」と噂されていた。
そして、この媚態は身辺にいる男性の強者に対しても向けられるのが常で、水上勉が初対面の小林秀雄から寵愛されるようになったのも、このためだった。伊藤律も德田球一に対してだけでなく、野坂参三にも媚態をしめし、そのため野坂は｢自宅では人に会わない」という合理主義的禁則を破って、伊藤だけには自宅で会うことを許している。
強者への随順という伊藤の態度は、中国共産党の幹部にも向けられ、伊藤自身がその回顧録で何度も彼らに誇大な賛辞を捧げたために、彼らから却って過褒に過ぎるとたしなめられていたことを告白している。
伊藤のような生き方は、当然、党内からの反発を招くことになる。德田球一の入院を転機にして、北京機関の内部から、そして海を越えた日本共産党執行部から、伊藤糾弾の声が一斉に上がり始めた。致命的だったのは、アメリカ側から米国機関によるゾルゲ事件に関する調査結果が公表されたことだった。これによれば事件が発覚して、ゾルゲや尾﨑秀実が逮捕され処刑されたのは伊藤律の密告によるということになっていた。
昨日まで德田球一の権威を背景に、飛ぶ鳥落とす勢いだった伊藤律は、北京機関の新たなリーダーになった野坂＝西沢コンビから厳しい査問をうけることになる。日本からも袴田里見が駆けつけて尋問に加わり、ついに彼は特高警察のスパイだったことを告白する。
この告白を受けて、日本共産党本部は日本国内の左翼シンパを驚倒させた伊藤律除名を発表するのである。
｢常習的媚態者」という点では、野坂参三にもややその傾向があるかもしれない。立花隆は、「野坂の一貫した基本的行動原理というのは、いってみれば、場あたり的な自己保身。そういう自己保身をやっているうちに、どんどん何重スパイにもなっちゃった。何重といっても、きっちり契約してお力ネをもらうというような関係じゃなくて、その時々であっちへ情報を流したりこっちへ流したりしていたわけでしょう」と語っているけれども、野坂があちこちに情報を流したとすれば、これもやはり強者に示す媚態としてだったかも知れないのだ。その媚態がたたって野坂は、伊藤律を追うようにして共産党から除名処分を受けている。
（・・・・ここまで書いてきたものの、本題の「謎のスパイK」の章に は、まだ辿り着けないでいる。長くなりすぎたので、この件はここで一旦中断し、続きは後日に、ということにしたい。他にまだ読みたい本や書きたいテーマがたくさんあるので）
