甘口辛口

神が消えた(1)

2006/8/24(木) 午後 1:20
私は30を過ぎるまで、金箔付きの唯物論者だった。宗教とは迷信の便所だと思っていたのだ。それが33才の9月、古い意識が一挙に押し流されて、内面が光と歓喜で充たされるという「不思議な体験」をしたことで、宗教に対する考え方が少しずつ変わり始めた。この「不思議な体験」は、巷間、かなり廣く見られる現象で、メソジスト教会神父の証言によると、同会の会員でこの種の体験をしたものはロンドンだけで652名いたという。イスラム教徒にとっても、これはおなじみの体験らしく、彼等はこれを単純明快に、「イルミネーション」と呼んでいる。

それほど普遍的な現象であるにもかかわらず、この体験がうまれるメカニズムはまだ明らかにされていない。医学畑の研究者が、「脳内麻薬」による一時的快楽現象ではないかと指摘している程度なのだ。だから、体験者は自分の体験に対してそれぞれ勝手な解釈を下している。キリスト教徒はこれを神の出現だと信じて疑わないし、禅宗関係の修行者は、大我によって小我が押し流されたのだと解釈する。

私は、キリスト教徒と禅者の考えをごちゃ混ぜにしたようなことを考えていた。
意識の背後にもう一つの意識があり、表自己の裏にもう一つの「裏自己」があって、個人が鬱状態に陥ったりすると、これが不意に出現して救助に乗り出すのではないか。古い自分を押し流す本体は「霊魂」というようなもので、精神がピンチになると「火事場の馬鹿力」式にエネルギーを結集して自分をリフレッシュするのだ、云々。

そして、漠然とこうも考えた。「霊魂」が「火事場の馬鹿力」を発揮するには、背後から神的なものの誘導があるからではないか。なぜなら、光を体験したときの絶対境には、一種、神的な感じがあるから。

私は「不思議な体験」をした33才から44才頃までの約10年間を、神を信じながら生きていたといってもいいかもしれない。この時期の私が、問題を突き詰めて考えず、漠然と霊魂の存在を信じたり、神の来臨を疑わなかったりしたのは、「不思議な体験」の印象があまりにも強烈だったからだった。

神を信じていた10年間、私の目に映る世界は神的なものに覆われていた。子供を連れて段丘上に登り足下に拡がる町を眺めていると、頭上の青空が神の瞳のように思われてきて、その神と視線を同じくして世界を眺めているような気がした。

毎朝、中央アルプスの輪郭線に目をやりつつ通勤していたが、朝日を受けた山脈の輪郭線上には何時でも神の臨在を感じていた。ところが44才のある朝、目を上げると朝日を受けた山脈の輪郭線上が空っぽになっていたのだ。神は掻き消えて、そこにはうつろな空間があるばかりだった。「光被された世界」は、突如、私の目の前から消えてしまったのである。
(つづく)