甘口辛口

密室としての日本(1)

2006/9/16(土) 午後 1:40
オウムの麻原被告に対する死刑が確定したことを、マスコミは大きく報じている。サリン事件などの犯人として麻原を含むオウムの関係者が逮捕されたときも、マスコミは朝から晩までこの問題を取り上げ、外国の新聞に「日本人の暗いエンタテイメント」と皮肉られるほどだった。そこで本題に入る前に、10年前事件が発覚した頃、私達がどのようにオウム問題を見ていたかを、思い出すことからはじめたい。

オウム問題はパソコン通信でも盛んに論じられた。10年前には「2ちゃんねる」やブログなどがなかったから、その役割をパソコン通信が果たしていたのだ。以下に引用するのは、パソコン通信上で他の会員と私が取り交わした「論戦」記事であるけれども、論争相手の文章を引用できないのを残念に思う。

(1)ヒッピーとオウム信者    
 
こんなことを言うと、不謹慎だと叱られそうですが、小生は少しばかりオウム信者に好意を持っています。以前に、ヒッピーに共感したように。

ヒッピーというのは、スクエアーと対になる言葉で、真面目に対する不真面目というような意味だそうですね。ヒッピーの中には、働くのが嫌いで、横着で、図々しくて、本当にどうしようもない連中もいます。しかし、中には真面目なヒッピーもいるのです。「真面目的不真面目人」とでも申しましょうか。

現代は、既成の社会枠の中でおとなしくしていれば、安穏に暮らせる時代です。もう飢える心配がなくなったのだから、もっと本質的な生き方を模索したり、好きなことに熱中すればいいのに、人間は、特に日本人は、与えられた枠組みから落ちこぼれまいと必死になってしまう。適応過剰。これですね。

そんな中で、ヒッピーだけが自発的に落ちこぼれて、好きなことをしている。固定観念のように染みついた「うまくやろう」という発想を止めて、敢然とドロップアウトの生き方を選ぶ。けれども、人の世のシガラミに縛られて、そこまで踏み切れない大人たちは、仕方がないから山頭火だの井月だのという乞食俳人の俳句を読んで心の飢えを慰めるしかない。

そのうちに経済環境が悪化してきて遊んで食えるような時代ではなくなった。すると、カルトが盛んになって来たのです。カルトに走る人間は、「思い詰めたヒッピー」と言ったらいいでしょうかね。ぬるま湯のような現代社会から抜け出して、自分を根本から新しくしようとする。「脱却」「解脱」、そのための「修行」「苦行」。これが、彼らに共通するスローガンです。しかし、苦行して身につけるのが空中浮遊のような超能力だとすると、これは余りにも少年雑誌式妄想で、いただけません。ヒッピーやカルト信者は、本来はコスモスに繋がることを求めるはずなのです。

先日、「コスモスとは何か」と、本欄のベテランK先生に問い糺されて大変困惑しているのですが、言って見れば人間世を包み込んでいる大いなるものとしか言い様がないですね。「宇宙からの帰還」という本を読むと、月に到達した宇宙飛行士が相次いで信仰に目覚め、伝道者に転身していると書いてあります。宇宙という途方もなく巨大で荒涼とした空間の中に、ぽつんと浮かぶ緑なす地球を目にして、彼らはぞっとするような戦慄を感じたのです。

コスモスの側に身をおいて眺めたら、人間なんて一瞬の時間を生きて無に帰するカビのような存在ですよ。だからこそ、限りある生命を哀惜せざるをえない。宇宙意識という言葉をしばしば耳にします。
  自意識=社会内意識=基調はエゴイズム
  宇宙意識=脱「社会内意識」=基調は愛

人は潜在的に狭い意識を拡張して、大きなものに繋がろうとする衝動を持っています。そうじゃありませんか? Kさんにしても、Gさんにしても、本当はその衝動を人一倍持っているように思うのですがねえ。
          
現在、オウム信者を社会復帰させるための方法論がさかんに論議されています。小生は、思いますよ。彼らは現代社会に愛想を尽かして、求道の生活を選んだのだから、このままその方向を進んでほしいと。彼らを又社会の枠の中に戻そうというのは、純情な青年にむかって、脂ぎった年増女と復縁せよと言うようなものですからね。

彼らは今回はろくでもない教団に引っかかってしまった。これからは集団幻想のトリコになることを止めて、もっと、まっとうなやり方で修行をつづけてほしい、君たちの志向は正しかったのだから・・・私はそう言ってやりたいですよ。


(2)「ニューズウイーク」の見方は
      
日本人はオウムをカルトだカルトだと言って騒いでいるが、閉鎖社会日本そのものが一つのカルトではないか・・・と「ニューズウイーク」は書いているそうですよ。Mさんが#612で引用している「ある人の言葉」というのも、同様の意味でしょうね。

オウム信者は、アメリカ人みたいに、「向こう側」から日本人を一つのカルト集団と見て、憐れんだり同情したりしていたかもしれませんよ。善良な日本人がオウム信徒のことを心配して、彼らを社会復帰させる方策を考えているとき、彼らの方ではダラクした日本人を救済する方法を考えていたんじゃないか・・・・

実利優先の日本社会に批判的な若者が目を向けるのは、どうもインドのようです。インドには現代の日本の失ってしまったものがまだ色濃く残っている、と感じられるからでしょう。オウムは、教義にも教団用語にも、ことさらにインド的な色合いを強調して、そうした若者たちの心をとらえています。

インドに出かける代わりにオウムに入ったという男女も数多いのではないでしょうか。
「脱日本」
「脱世俗」
これが、オウム信徒の心情を解くキーワードですよ。彼らのこうした心情を理解しないで、いたずらにマインドコントロールを施そうとしても徒労に終わるに決まっています。

体制内の日本人だって出家者(これをオウム式に言うとサマナとなるらしいですが)の気持ちを理解できないことはないと思いますがね。西行とか良寛とか、日本で人気のある歴史的人物は世俗を捨てて出家しています。家を捨てることで、より広い世界を獲得したのです。

小生は、勤務の都合でよその土地で借家暮らしをしていた頃、よく散歩に出かけました。住宅地を歩くと、ブロック塀の上から四季折々の樹木が枝を伸ばしています。実に美しい。小生は、虚心にそれらのたたづまいを味わって帰ってきたものです。

ところが地元に戻り、他人の家の見事な樹木を眺めても、最早、虚心になってその美しさを味わうことができないのですね。(我が家の庭に、あの樹木がないのはどうした訳だ)という浅ましい気持ちが沸いてくるからです。

小生は典型的な俗物ですが、そんな小生にも心の底に脱世俗のうずきがあります。
だから、何時までもオウムにしがみついている信者たちを何て馬鹿な奴らだろうと、突き放してしまう気にはなれないのです。
                  


(3)まあ、まあ、あまり興奮しないで     

オウムに対する怒りはわかりますよ。これは、国民的怒りと言ってもいいし、いや、人類的な怒りと言った方がいいでしょう。教祖を中心とした一部の幹部が、密室の中で独善的な密謀をこらして何の罪もない市民多数を殺傷する・・・
これに怒りを感じないとしたら、感じない人間の方がおかしい。

その怒りが発展して、「こんな教団に今もなお留まっているような奴らはどこかの離島に隔離してしまえ」というところまで行ってしまうと、これはやっぱり行き過ぎですよ。
教祖らは平然と「ポアする」計画を練っていたかもしれない。だが、下部の一般信者が「私たちは、掃除機に入ったゴキブリだって殺しません」と語っていることもまた事実にちがいありません。

オウムに入信した信者には、超能力を身につけたいなどという愚かしい動機にもとづくものもいたでしょうが、もっと純な気持ちから全財産をなげうって教団に飛び込んだ者もいるはずです。一般信者の心事が理解できるかどうか、理解しようとする気持ちがあるかどうか、ここが肝心要のポイントではないでしょうか。

Kさんは宗教的なものに惹かれる人間を、どこかおかしいと見ているようです。これは、Kさんだけでなく、日本人一般に共通する気持ちかもしれません。確かに、旧宗教・新宗教・新々宗教、どれをとってもいかがわしいものが多い。だからといって、すべての求道者を一把ひとからげに阿呆扱いするのは行き過ぎですよ。

今、福祉施設などをまじめに運営している人には、宗教家が多い。
オウムに限らず、各宗派が掲げている教義には心惹かれるものが多々あります。高学歴の若者がオウムに吸引された理由の一つは、オウムが某教団のように現世利益を説こうとしないで、むしろそれを否定したからでしょう。オウムには世俗宗教を越えた何かがある、と彼らを錯覚させるものがあったのです。

「修行による解脱」という困難な道を選んだ彼らは、その心境において、円高を利用して外国に出かけブランド品を買いあさる若者のたちよりましだと思うのですがね。
難しい関門をいくつもくぐり抜けてお医者さんになったKさんには、同じ本欄に投稿している小生は衷心から敬意を払います。しかし、それ以上に、進んで私財をなげうって福祉活動をつづけている宗教家にはもっと深甚なる敬意を払います。そしてオウムの信者の中には、こう言った心根を持つ者も少なからずいるんじゃないかと想像するのですがねえ。

小生は腹の底からの俗物で、退職後は、夜は眠くなるまでミステリーを読み、朝10時まで寝ていて起き出してから趣味的農業をやるという気楽な暮らしをしています。正真正銘、消費文明の受益者です。しかし・・・やましさを感じるのですよね。そして、この日本で、誰よりも尊重さるべきは、求道の志を抱いた若者たちだという気がしているのです。

人は求めている限り、迷うものです。
オウムの信者は、くじけそうになる気持ちを教祖の、「修行するぞ、修行するぞ、テッテー的に修行するぞ」と繰り返すテープを聴きながら奮い起こしてきた。教祖なき今、求める気持ちが本当なら彼らは、もっとまともな指導者を見つけるはずです。見つからなければ、自身の内部を探せばいい。彼らをキチガイ扱いする代わりに、彼らの心根を尊重し、彼らの修行を成就させるように手を貸すのが、われら大人の義務だと思うのですがいかがでしょう。治療さるべき病人、精神病院に入院すべきクライアントは、私たちではないですか。
(つづく)