甘口辛口

懐かしの映画

2006/11/14(火) 午後 4:19
戦争の末期に徴兵された私は、松本市郊外の有明練兵場というところに送り込まれた。まわりは「学徒兵」ばかりで、新兵いじめを趣味とする古兵は皆無だったから、宿舎には日本の軍隊につきものの陰惨な空気はなかった。僅か20日ほどの短い期間だったが、私たちは運動クラブの合宿所にいるような気楽な気分で有明での日々を過ごすことができたのである。

雨が降って訓練のない日には、学生気分に戻って宿舎で映画の話などをする。そこで明らかになったのは、皆に一番愛されている映画が、吉村吉三郎の監督した「暖流」だったことだった。東京で学生生活を過ごしていた仲間のほぼ全員が、この映画を二度以上見ていたのである。私は三回見ている。

戦争末期の映画館では、粗雑な戦意高揚映画ばかりが上映されていた。だが、不思議なことに、一昔前に製作された数本の日本映画だけが例外的にリバイバル上映されていて、その一つが「暖流」だったのだ(ほかに小津安二郎の「戸田家の兄妹」なども上映されていた)。

「暖流」は岸田国士の小説を映画化したもので、主演俳優は佐分利信だった。ある大病院が経営不振に陥ったので、佐分利信扮する青年が招聘されて事務長になり、病院の再建に当たるという筋立てで、この事務長をめぐって病院長令嬢役である高峰三枝子と看護婦役の水戸光子が三角関係になるのだ。

この映画を見た学生たちを最も感動させたのは、海岸を散歩中に佐分利信から水戸光子と結婚することを告げられた高峰三枝子が海の水で顔を洗い、あふれ出る涙を隠す場面だった。院長令嬢は涙を洗い流した後で、事務長に明るく祝福の言葉を贈るのだが、令嬢のこうしたけなげな振る舞いが学生たちを感動させたのだった。

戦後になって吉村公三郎は、事務長が令嬢に比べてすべての点で見劣りする看護婦を選んだ理由を次のように解説し、映画を作るときにもそこに力点を置いたと語っている。

「令嬢は完璧な近代女性で自立しているけれども、看護婦の方はそうではない。男が看護婦を選んだのは、女が彼を必要としていたからなんだ」

戦争が終わって20年、30年たつと、黒澤明の「虎の尾を踏む男たち」「姿三四郎」など、戦中・戦前の日本映画がさかんにテレビで放映されるようになった。私は、「暖流」がテレビに登場するのを心待ちにしていたが、その気配は一向になかった。そんな時期に、テレビで「アクシデンタル・ツーリスト」(「偶然の旅行者」)という洋画を見たのである。

これも「男は、自分を必要としている女を選ぶ」というアイテムをテーマにした映画だった。ほかの視聴者にとっては、この映画は何ということもないものだったかもしれない。しかし、戦争末期の薄汚れた映画館で、「暖流」を見て心を癒していた私にとっては、この映画は格別に身にしみるものを含んでいた。

「アクシデンタル・ツーリスト」は、クルマに乗って夫と妻が雨の中の道路を走っている場面から始まる。その車内で妻が唐突に、「わたし、離婚したい」と言い出すのである。

妻は家を出ていき、夫は一人で愛犬とともに家に残される。彼は旅行案内書のライターだったから、仕事で家を空けるときには飼い犬を何処かに預けなければならなくなった。そこで彼は、愛犬をペット病院に入院させることにするのだ。これが縁で彼は、女性の犬訓練士と親しくなる。

飼い犬を見事に手なずけ見違えるようにしてくれた訓練士は、男に愛情を示すようになる。別れた妻は美人で教養もあったが、こちらの訓練士は女らしさに欠け粗野で美しくもない。まだ別れた妻に未練を抱いている彼は、訓練士と深い関係になることを避けていた。が、結局女のおんぼろアパートに転がり込んで同棲してしまうのだ。

そんな時に妻が家に戻って来るのである。男は妻とよりを戻し、再びわが家に帰る。捨てられた訓練士は、男がパリに取材旅行に出かけることを嗅ぎつけて、彼の後を追ってパリにやってくる。そこへ妻もアメリカから駆けつけてくるのだ。筋肉痛で夫が身動きできなくなったからだった。

男は、花のパリで妻と愛人に挟まれ、いずれを選ぶか決断しなければならなくなる。

──彼は果たしてどちらを選ぶのであろうか。佐分利信扮する事務長が、看護婦を選んだように旅行案内書ライターの男も、「男は、自分を必要としている女を選ぶ」というアイテムに従って、欠点だらけの訓練士の方を選ぶのである。

この洋画を見てから、私はますます「暖流」をもう一度見たと思うようになった。だが、NHKの衛星放送第2では、過去の名作映画を相次いで再放送しているにもかかわらず、いまだに「暖流」の放映はないのである。