甘口辛口

悲観論者の処世術(3)

2007/1/28(日) 午後 9:56

                (写真は、大岡昇平の愛人、坂本睦子)

大岡昇平の読者には意外かもしれないけれども、彼は時代に対する悲観論者であり、絶望論者でもあった。大岡がこんなことを言っているのをご存じだろうか。

「戦後25年、おれたちを戦争に駆り出したやつと、同じひと握りの悪党どもは、まだおれらの上にいて、うそやペテンで、(昔と)同じことをおれたちの子どもにやらせようとしている」

また、彼は対談でこんな発言もしている。

「歴史は繰り返すというけども、全くこの(復古調の)世の中がいやになっちゃうよ、もう。かってにしやがれと思う」

こういう現代社会に対する怒りが、大岡をして日本国の「芸術院会員」になることを辞退させたのだ。彼の絶望は、うそや偽りではなかった。だから、こんな発言も飛び出してくるのである──「おれは普段家で晩飯の時なんか、ビール飲んで反体制的なことを言っているんだ」。

しかし、この大岡昇平は、これらの悲観論とは裏腹に、次のような楽観論も述べている。

──「なんだかんだといっても、最後に勝利を占めるのは人間の正義なんだ」

──「まあともかく、おれは正しいことは最後まで残るという楽天的な考えだな」

大岡のように悲観論を語る人間が、同時に楽観論を口にするのは矛盾しているように見える。が、よく考えてみるとこの両者は内部でつながっているのである。華厳の滝で自殺した藤村操は、「大いなる悲観は、大いなる楽観に通じる」と書き残したが、これは別に奇を衒った表現ではなかったのである。

人が悲観論に落ち込むのは、心に理想的な世界を把持しているからだ。
社会のあるべき姿について明確なイメージを持っているから、人は堕落した現世を前にして絶望する。だが、現実によって裏切られる度合いが大きければ大きいほど、やがて揺り戻しによって社会が善へと回帰する予感と期待も強くなり、楽観的な気持ちも盛り返してくるのである。

私が戦争中に、「こんな馬鹿なことが何時までも続くはずはない」と考えたのも、悲観論と裏腹な関係で楽観論が意識内に息づいていたからだった。われわれが反動期を生き抜くには、悲観論の背後に潜む楽観論を呼び覚ませばいいのである。「悲観論者の処世術」とは、実は楽観論を蘇生させるための方法論にほかならない。

では、大岡昇平は、そのような方法論を持っていたのだろうか。

大岡昇平を読み始めた頃、私は彼を当代きってのシニックな作家であり、と同時に鴎外に劣らぬストイックな人物だと思っていた。それらは「俘虜記」を読むことによって定着し、その後の彼の論争を中心にした評論を拾い読みすることによって強化された印象だった。

ところが、テレビで彼が中野孝次と対談する番組を見ていたら、突如、大岡昇平が言葉を詰まら泣きそうになったので、ぎょっとした。それまで、江戸っ子風の磊落な口調で話をしていた彼が、フィリピンで死んだ戦友たちの話題になったら、急に涙声になり、事実、目に涙を浮かべたのである。

戦後作家の中では、異例なほど強靱な頭脳を持った大岡昇平は、同時に文壇きっての泣き虫だったのだ。

その積もりになって大岡の作品を読んでみると、彼は実によく泣いているのである。「俘虜記」にも、大岡がフィリピンに発つ直前、面会に来た妻子と涙の別れをしたことが書いてある。これは余程戦友たちの注意を引いたらしく、「大岡の泣き別れ」として後々までも分隊内で語りぐさになったという。

彼の自伝的な作品にも泣きの場面がよく出てくる。だが、私が最も注意を引かれたのは文壇の作家たちから愛されていた名物ママの葬儀の席上で、大岡が激しく泣いたという話だった。小林秀雄、河上徹太郎から始まって、中原中也、坂口安吾とも関係があったといわれる坂本睦子というバーのママが自殺したとき、多くの作家たちが弔問に訪れた。夜が更けてくると、大岡昇平が人目をはばからず、まるで子どものような大声で泣きだし、容易に泣き止まなかったというのである。

大岡は恋多き女だった坂本睦子の最後の愛人だった。が、彼女が自殺したときには既に大岡との関係は切れていて、二人は顔を合わせることもなくなっていたのである。女が死んだと知って弔問に駆けつけた大岡は、時がたつにつれて情が激してきて、ついにこらえきれなくなって頑是無い子どものように泣き出したのだった。

注目すべき点は、このあとで彼が坂本睦子をモデルにして「花影」という作品を書いていることだ。大岡作品の中でも秀作の一つに数えられているこの作品を読むと、大岡昇平という作家の特質がよくわかる。彼は情の濃い男で、他人の何倍もの愛情を周辺の人間に注いでいたけれども、決して相手の本質を見誤ることはなかった。「花影」には、自死に向かって刻々と歩み続ける女を、冷徹に静かに愛情をもって見つめる作家の目が光っている。

「俘虜記」もそうである。彼はこの作品を大岡流の「日本人論」として書き、愛する同胞の生態をメスで切開するようにして分析している。大岡は捕虜収容所で仲間の捕虜たちが演芸大会を開催するのを複雑な目でながめる。帰国した彼は占領軍に統治されている戦後社会のありようを、捕虜収容所内で演じられた演芸大会のようだと思う。そして、明治以後の学者や文人のいきざまを、天皇制権力の監視下に演じられた演芸大会のようなものとして眺めるのだ。

大岡昇平は、いつまでたっても少年のような純な感情を残した作家だった。
彼は帰国後、先輩の小林秀雄と伊東の旅館で再会する。旅館の廊下で小林は、「よかった、よかった」とうれしそうに迎えてくれた。大岡は、この時の真情に溢れた小林の顔を一生忘れないのである。

埴谷雄高との対談で、彼は自分の作品を評価しなかった作家や評論家にムキになって悪態をついている。これも中学生のように無邪気な感じがして面白く読める。大岡は、自分と同じような無垢な人間を愛した。彼は「パルムの僧院」のファブリスをその汚れのない無邪気さの故に愛した。「武蔵野夫人」の勉をはじめとする彼の長編小説の主人公は、いずれも無垢な若者である。

森鴎外は、私人としてはソフトな人間で、豊かで深みのある情感の持ち主だったが、作品の中で自身を描くときには情操不動の硬質な人間にデフォルメしている。自伝的作品以外でも、鴎外作品で主役を務めるのは脱俗の硬質な人物が多く、結果として彼の作品は殷周銅器のような堅固な質感を備えるものになっている。作品の中で自分を嵩上げしなければならなかった鴎外は、実生活でもナマな自分を出すことが出来ず、護身用の生活術や処世法を考案しなければならなかった。

大岡昇平には、処世術のようなものは必要なかった。もし彼に身を守るための処世術があったとすれば、鴎外とは反対に自分をすべてさらけ出すことだったのである。彼は悲しければ泣き、腹が立てば悪態をつき、本当に怒れば得意の毒舌をふるって「敵」に論争を挑んだ。

彼は「自分は深い人間ではない。横に拡がって行く人間だ」と自らについて語っている。大岡は、天文学・地理学・歴史学などについてアマチュアのレベルを超えた深い学識を持っている。彼は現代日本に深甚な怒りを感じていたが、そういう彼を救ったのは知的な探求欲だった。大岡は対人関係で私情を隠さなかったように、知的活動においても自分に忠実であり、自己の内面を全的に活動させることによって、時代に対する憤懣を相対化したのであった。