甘口辛口

深沢七郎の人間滅亡教(その4)

2007/7/16(月) 午後 2:59

(深沢七郎と愛犬)

深沢七郎は、人間滅亡教について、次のように説明している。

<私の人間滅亡というのは個人の滅亡だが、人類滅亡ということにも関係して読者を迷わせた。個人の滅亡というのは家庭を持ったり、就職したりするいばらのみちに生きるよりも、安易気ままに生きようという私だけの生き方なのだ・・・>

彼がこのような生き方を選択したのは、「自分のことしか考えず、自分のためにしか行動しない」おのれ自身のサガを見据え、さらにそれが人類に共通する根深い業であることを痛感したからであった。

しかし彼は自分の利己性を手放しに肯定していたのではない。自分の性癖について深い罪の意識を持っていた。深沢七郎は狭心症の発作に苦しみ、結局心不全のために死ぬのだが、自分の病気について、こう書いているのだ。

<とにかく、私は病気になったのは、なにか、罪人として苦しめられているのだと思った。私は何かの罪のためにいま苦痛を与えられているのだと思った。だから、苦痛は仕方のないことで、避けることは出来ないものだと思った。>

強い罪悪感を持ちながら、歪んだ自分の性格をどうすることもできない。自分だけではない。すべての人間がそうした低次元の性質を持って生まれて来ているのも宿命なのである。個人の努力ではどうにもならない。こう考えて彼は一種の運命論者になるのである。

<ふだん私はお医者さんが嫌いで、嫌いというのは適当な言葉ではない。私は病気というものは医学では直らないものだと決めているからだった。病気になるのは宿命でさけられないことなのだ、もし、なおるならそれは自分の身体のなかにそういうちからがある筈である。

自分でなおるちからがないならそれは運命なのだ。なおらない運命をなおすことは、たとえ生きのびても自然ではない。クスリなどは効くとは信じられないのである。とにかく、病気になっても、なおるならそれは自分の身体のなかになおるちからが湧いて来るだろう。それ以外は自然にさからうことなのだ。>

深沢七郎は昭和42年から、「話の特集」誌に「人間滅亡的人生案内」と銘打った人生相談欄を開設している。私はこれを読んでいて何度か笑い出したけれども、相談者にあたえる彼の奇抜な回答は、運命論者としての視点から発せられている。

相談者の素性にも興味があった。深沢七郎に相談を持ちかけるのだから、投稿者には少しずつ変わったところがあるのだ。出色の相談者は、現在保釈中の男だった。

< 中学の時、男女の生理的相違に非常な興味を持ち、実際に調べてみたところ、警察という大変に恐いオジさんの居る所に連れていかれ、「強制わいせつ」という題名の原稿を口述で書かされました。

 それでも僕の知識欲はとどまるところをしらず、それと前後して三回ほどまたまた恐いオジさんに連れられて、原稿の続編を書くこととあいなったのです。そうして僕の運命を左右する一大事が起きたのは高校一年の時です。>

高校一年にもなると、女の子の生理構造も大体分かったので、次なる実験に着手し、某週刊誌に「少年三人組の強盗強姦事件」と書き立てられたような事件を起こし、少年院に一年三ヶ月ぶち込まれるのだ。

釈放され家出人からフーテンへと移行した男は、自分の生き方に開眼をもたらすような一冊の本にぶつかる。

< もう強姦の面白さも僕の興味はひかず、うっとうしい毎日を送っていた僕に手招きしたのはジユネです。『泥棒日記』一冊しか読まなかったのですが、僕はその感激にたえる事はとてもできず、そのふくれあがった魂は、どういう屈折現象を起こしたものか、僕を一流の「ノビ師」にしあげてしまいました。>

60件近くの窃盗を働いて逮捕されて保釈中の男は、長い相談の手紙を、「僕のこの手紙は真実ですが、訴えているのは半分退屈しのぎで、半分もしかしたら・・・・という気分です。お願いします。アドバイスをひとつ」と結んでいる。

これに対する深沢七郎の返答は次のとおり。

<人間滅亡教はボーツとして生きることにあるのです。ところが貴君の過去は妙な虚栄心があるのです。それが盗みをしてしまったのです。貴君は自分では気がつかないかもしれないが盗みは虚栄心です。不愉快なものです。ボーツと生きている人間には嫌な感情なものなのです。

人間滅亡教は何も考えない、ボー然とした楽しさが極意なのです。欲をかいたり、虚栄心から快楽を求めたり、淋しがったり、悲しがったりしないことです。どうか、ボーツと生きて下さい。

尚、男女の生理的相違の興味だとか、強盗強姦とか過去のことですがお手紙の内容だけではよくわかりません。匿名でよいのですから具体的にお知らせ下されば回答致します>

このほか、「小生フェティシストでございます。平たくいうと女性の下着コレクター。この件に関しご相談致したく、筆をとった次第でございます」というようなものや、「私はペシミストでニヒリストでアナキストでオナニストのようです」というものもある。

次の質問には、深沢七郎は丁寧に答えている。

<深沢七郎様

初めまして。こんな人間がいるのかと思わないでぜひお答え下さい。
吉永小百合をこの世の妖精と信じ、政治には無関心で、ニヒリスト、オナニスト、ナルシスト、かつ自分は被害妄想狂だと思い悩んでいる十九歳の老人です。

・・・・友達になっても、いつかは裏切られ、あざ笑われると思うとなんとなくしっくりといかない。・・・・先生、助けて下さい。廃人のような私は一体どうしたら人生が楽しくなれますか? それとも、もうだめですか?>

これに対する回答。

<・・・・「友達になっても、いつかは裏切られ、あざ笑われると思う。」なんと不必要なことを考えることでしょう。友達などというものはそれでいいのです。友達というものは花のようなものです。例えば、幼稚園のときの友達、小学校のときの友達、中学、高校、大学の友達、それは、春には春の花が咲き、夏には夏の花が咲くのと同じです。そのとき、そのときの時季、状態で友達はそこにあるから眺めたり、飾りものにするのです。

友達はいつかは裏切るものではなく自分自身が選んだり、捨てたりするものです。友達などというものはそのときどきに自分のために存在するのだからそんなものに負担を感じたり、たよりにしようと思うのは悪いことだと思います。友達は選んだり、捨てられたりするもので、デパートで買うアクセサリーの一種だと思えばいいでしょう。

・・・・「私は生まれてこれと言ったことは何もしていない。いてもいなくても同じなんですね」ということは最高の人生だと思います。なんとなく生れてきたのだから、なんとなく生きていればいいのです。その最高の人生を持っている貴君は最高の幸福なのです。何かこれと言ったことをするような奴は人生からハミ出した奴です。

フーテン、作家、俳優、音楽家、美術家、そんなものはクズの人間です。そんなクズばかりに恐怖感を抱くなんて、妙です。そんなものこそブジョクしていいのです。彼等は病的な神経を隠そうとするか、又は逃避するためにそんなことをしているのです>

もう少し、「人間滅亡的人生案内」を見て行こう。

(つづく)