甘口辛口

安岡章太郎の「下からの目」(その3)

2007/8/15(水) 午後 0:03

 (安岡章太郎I

安岡章太郎は仲間の兵隊から、「お前はよっぽど殴られるのが好きと見えるな」とからかわれるほど、毎日、中隊の誰彼から殴られていた。が、皮肉なことに中隊の仲間がレイテ島で全滅したにもかかわらず、安岡だけが生き残り、戦後の日本で作家として活躍することになったのである。これは大岡昇平の場合と似ている。大岡も仲間がほとんど全員死んでいる中で、五体健全なまま生き残ってちゃんと帰国している。

安岡が助かったのは、奇妙なりゆうからだった。所属している中隊が、満州の孫呉からレイテ島に向けて移動するどさくさにまぎれて、一人だけ便所にこもっていたため、彼は南方に移動するのをまぬかれたのだ。大岡も病気のお陰で助かっている。彼はマラリアにかかって部隊から放り出され、戦場に一人取り残された為に米軍の捕虜になり、死なずに済んだ。戦争で生きるか死ぬかは、紙一重の差しかない。戦後の日本を代表する二人の作家は、病気のお陰で幸運にも命を長らえることが出来たのである。

だが、彼らが生き延び得たのは、それ為だけだったとは思われない。彼らには事態を直感する英知があり、それ故に肝心の場面で妄動することがなかったから助かったのである。彼らは、生きるか死ぬかの分岐点で、じたばたしないで運命に身をまかせるという方法を選んだ。二人は、運を天に任せる諦観を持ち得たから、救われたのであり、その点は、学生時代に劣等生だった安岡の生きざまに、特に顕著に表れているのである。

箸にも棒にもかからぬ「のらくろ二等兵」だった安岡は、誰よりも冷静な目で日本の軍隊なるものを見ていた。彼は軍隊の数量主義について、次のように書いている。

<・・・・(軍隊では)あらゆるものは数量に換算され、数量だけが、価値判断の基準になる。たとえば天井からブラ下っている電燈は、あたりを明るく照らし出すために重要なものではなく、コードとソケットが営繕係に、電球と笠とが陣営具係に、それぞれ員数として登録されているために重要なのである。>

こういう本末転倒した数量主義のもとで生きる兵士達は、自分の身を守ってくれる筈の兵器さえ厄介物と考えるようになる。兵隊達にとって、兵器は自分たちを束縛する邪魔な道具に過ぎないのである。例えば、十一年式軽機関銃などは、敵を攻撃する武器であるよりは、演習のたびに故障を起こして兵隊を泣かせるためあるとしか感じられない。

また、彼は軍隊内部での人間関係についても、従来来見落とされていたような特質を指摘してみせる。

<兵隊達にとっては下士官までが地上の人間である。それ以上の階級になると、手をのばしても触れることの出来ない、灰色にカスんだ抽象的な存在に思える。>

同じ兵舎の中で暮らしていても、兵隊にとっては小隊長や中隊長は雲の上の人であり、普段接触する上官は下士官までなのだ。そして、この下士官には品性下劣な人物がかなり高い比率で混じっていて、その下士官が内務班の班長として兵隊達の上に君臨するのである。

安岡の所属する班の班長は、下士官に任官したばかりの浜田伍長で、志願兵上がりの若造だった。この満19才何ヶ月かの班長は、安岡らに向かって、胸を張ってこう宣言するのだ。
「おれはオニだ、オニ伍長だぞ。・・・・おれがオニ伍長だということは、連隊中でも、師団でも、ピイ屋でも、知らないものはいないんだ」

こういう上官や古兵達から日夜殴られながら、安岡は発病するまで仲間の兵隊達とつかず離れずの関係を保って暮らしていた。この身の処し方は、彼が自認しているよりもはるかに賢明なものであった。中隊の南方移動に際し、彼が行を共にしなかった事情について、安岡は作品の中に次のような公文書(安岡処罰案)を掲げている。

                   ・・・・・
                   
<重営倉七日
本人ハ昭和十九年八月十九日午前二時、本人ノ所属スル中隊ノ南方動員二出陣ノ際将二出発セントスル時二当ッテ平素中隊長ノ訓戒二反シ暴飲暴食シアルタメ遽カニ便意ヲ催シ
タル儘 厠ニ赴キタル処 用便二長時間ヲ費シテ遂ニ中隊ノ出発ヲ知ラズ 是ヲ恥タル本人ハ狼狽周章中隊追跡ノ任務ヲ忘レ 中隊兵舎ノ内部ヲ無為ニ徘徊シイタルヲ 衛兵二発見セラレタルモノナリ 云々>

                    ・・・・・
                    
この処罰案は連隊本部によって却下された。既に軍医から彼が肋膜炎にかかっているとの診断書が提出されていたので、部隊長から、「病をおしてよく軍務に精励していた」と、かえって賞辞を受けたのである。                  

こうして安岡は、昭和19年3月に招集されてから、満州の孫呉で約5ヶ月間を過ごし、その後、南方戦線に赴いた中隊の仲間と袂を分かって、病兵として孫呉の陸軍病院に入院することになる。そしてあちこちの病院を渡り歩き、昭和20年の3月の内地に送還されるのである。この間、安岡は院内の病兵達の生き方を冷静に観察している。

病院の中で兵隊達は一日千秋の思いで、内地に送還されることを望んでいる。しかし、何時誰が送還されるかは、病兵達には分からなかった。ある日、不意に患者のなかの何人かが内地送還の選に入り、やがて船に乗せられて故国に帰っていくのである。選に漏れたその他大勢の患者達が、送還される仲間を嫉妬したり憎んだりするかと思うとそうではなかった。送還されることが決まり、今や自足の表情を見せるようになった幸運な仲間を自分たちとはかけ離れた資質をそなえたエリートとして仰ぎ見るようになるのだ。

残された病兵にとって、内地は光り輝く天国のように見えた。

<もはや兵隊たちにとっては世界は二つしかない、内地と外地と。それは天国と地獄のようにはっきりと区別される二つの世界なのだ。そして、そういうことから逆に、転出、内還になるのは、どこかにもともと「上品」さのある者、それだけの徳のそなわった者、そういう人間だけが転出者にえらばれる資格があるのだという気持を、無意識のうちにも皆の心に抱かせるのである(「遁走」)。>

内地送還を待ち望む気持ちにかけては、安岡章太郎も他の病兵たちと変わらなかった。だから、彼は「近く送還者が決まるそうだ」という噂が流れると落ち着きを失い、些細な情報に一喜一憂したのである。

そのうちに、彼の心境に変化が生まれて来た。
内地に送還されても、直ぐに自宅に戻れるわけではない。国内のどこかにある別の陸軍病院に移るだけなのだ。そう思ったとき、彼はいいしれない退屈な気持ちに襲われた。

<内地へついたからといって、そこに待っているのはやっぱり、室長であり、当番であり、衛生兵 であることにかわりなかろう。そのかわりに、北満州へ送りかえされようと、ここへ残されようと、そこに自分なりの行き方をして、生きられるだけは生きて行けるだろう。仮に内地で婆婆にもどされたところで、そこに待っているのは…(「遁走」)。>

ここに安岡章太郎における悟脱の姿がある。
大岡昇平は、兵士や捕虜収容所での捕虜の生態を知的に分析する。そして、そのことによって戦争を大観する俯瞰的視点を獲得する。だが、安岡は軍隊の内務班や陸軍病院に身を置き、不条理な世界に耐えることによって住み慣れた「退屈」の境地に還帰するのである。安岡にとって悟脱とは、生得ともいえる退屈な感情の中で安らぐことなのだ。

「遁走」に描かれているのは、一人の人間の成長する過程であり、悟脱にいたる道筋なのである。