甘口辛口

相撲協会改善策

2007/8/17(金) 午前 10:45
別に朝青龍の肩を持つわけではないが、今度の問題に関連して識者の発するコメントを聞いていると、腑に落ちないことがいくつもある。一例をあげれば、師匠の高砂親方が弟子の朝青龍の住まいを訪ねるのはおかしいという意見だ。師匠だったら鶴の一声、弟子を自宅に呼びつけるべきだというのである。

世の識者が、相撲協会と朝青龍の関係を会社と社員の関係になぞらえるのはいい。そして、朝青龍が地方巡業という会社の大事な業務をサボったのだから、処罰を受けるのは当然だと主張するところまではいいのである。会社の仕事をサボる社員がいたら、会社はその社員を馘首することだって許されるのである。

だからといって、企業でいえば部長職に相当する部屋の親方が、出勤拒否する社員の家を訪ねてはいけないということはない。一般の会社で部長が出勤拒否をする社員のことを心配し、相手の家を訪ねてその言い分を聞いたり助言をしたりしたら、これはむしろ美談になるのである。

大相撲の世界では、親方の権限が極めて強く、弟子が反抗したら独断で廃業させることも出来るという慣行があるから、高砂親方の弱腰を責める意見がまかり通るのだ。しかし弟子は無条件で親方の指示に従うべきだという強権的な師弟関係などは、アナクロニズムの最たるもので、到底今の世の中には通用しないのである。

師弟間の強権的な関係は、弟子達相互の関係をも規定している。相撲の世界では、兄弟子は、「無理扁にげんこつ」と書くといわれるほど弟弟子に対して横暴だといわれる。こうした関係は、日本軍隊の古兵と新兵の関係を思わせるのである。

私は小学生だった頃に、松本市にやってきた大相撲を見に行ったことがある。巨漢力士の男女ノ川が横綱を張っていたころであった。取り組みが始まる前の会場をぶらぶらしていたら、片隅で十数人の力士が稽古をしていた。中央に稽古頭(かしら)と呼ばれる幕内力士が椅子に座り、そのまわりに半円を描いて下っ端の弟子達が居並んでいる。椅子に座っているのは稽古頭だけで、他の弟子は皆立っているのである。

これらの力士に叱咤されながら、稽古をしているのはどうやら下っ端中の下っ端力士らしかった。稽古中の二人に浴びせられる兄弟子達の罵声は小学生の私にとってすら、耳を覆いたくなるほど悪辣で残酷だった。中央の稽古頭は、配下の弟子達の悪口雑言を制止するでもなく、無表情に稽古する二人を眺めていた。

だが、すべてがそんな相撲取りばかりではなかった。

観客が詰めかけてきて、やがて中央の土俵に二人の幕内力士が上がり、羽織・袴の年配の親方の指示に従って、四十八手の組み手を実演し始めた。実演する力士の一人は色白で、絶えずにこやかな微笑を浮かべていた。その穏やかでやさしい微笑は、ほかの力士にはないものだった。その穏和な表情の力士こそ、若き日の双葉山だったのである。

──とにかく、大相撲には奇妙な仕来りが多すぎるのだ。
相撲協会は、どうして十両以上の取り組みをナイターでやらないのだろうか。そうすれば、連日「満員御礼」の札が出るはずなのである。

そして協会はどうして土俵のまわりの桟敷席を撤廃して椅子席にしないのだろうか。そうすれば、観客は足腰に負担を掛けずに見物できるし、土俵を飛び出した力士をさっと立ち上がって避けることも出来るのだ。

それから、あのおびただしい数の行司や呼び出しは、何とかならないのだろうか。

それに昇進した力士に対する付け人制度がある。地位が上がって行くと、その力士には同じ部屋の下位力士が付け人になって、従者のように世話を焼く。こんなことは一刻も早く止めるべきではないか。所属する部屋は同じであっても、番付上位の力士と下位の力士は活動場面を別々に切り離したほうがいいのではないか。

例えば十両以上の力士は現行通りの日時に本場所を行う。彼らは既定の場所で、ナイターで勝負するのだ。それより下位の力士は、プロ野球の二軍選手のように上位力士とは別のところで行動し、地方巡業を主舞台にして取り組みを行う。そして、総合成績上位の者を十両に格上げするのである。つまり、プロ野球における一軍と二軍の関係と同じにするのだ。

朝青龍が地方巡業を嫌ったのは、巡業には特有の煩わしさや苦労があるからだと言われる。としたら、巡業を十両以下の力士の仕事にすればよい。そうすれば、若い力士達は兄弟子への奴隷的な奉仕を免除され、自分たちだけでのびのび暮らせるから、苦労の多い地方巡業も歓迎するはずである。巡業中の成績が出世のための条件になれば、若い力士らは地方に出ても懸命に稽古し、観客の前で真剣に勝負をする。

地方の観客も、必ずや若い力士の真剣勝負を歓迎するに違いない。横綱を筆頭にオールスターキャストでやってくる地方巡業は、取り組みを見るかぎり、あまり面白くない。怪我をすることを恐れて、力士らが八百長じみた相撲を取るからだ。

日本の若者が大相撲を志願しなくなったのは、相撲の世界にプロ集団にはあるまじき非人間的な慣習が残存するためである。すべての相撲関係者は、皆そのことに気づいていながら、改革が一向に軌道に乗らないのは何故だろうか。

日本相撲協会が世界に類例のない特殊な企業体だからだ。
相撲協会は、トップの理事長から末端の役員に至るまで、ことごとく力士出身者で構成され、その協会が国技館という施設を所有しているのである。日本にプロ野球協会というものがあって、長嶋茂雄が社長になり、役員のすべてが各球団の選手OBによって構成され、後楽園に自前の球場を持っていたとしたとしたらどうだろうか。日本相撲協会は、そうした組織なのだ。退役力士のみによる収益企業体なのである。

相撲協会の理事達も、不要な人員をたくさん抱え込んでいることを知っている。だが、協会は力士OBからなる共済組織であり互助組合なのである。だから協会は、廃業した力士を救済するために、ワーキングシェアの体制を確立し、一人で出来る仕事を何人ものOBで分担するシステムをとるのである。

協会の役員達は、漠然と大相撲を近代化する必要を感じている。だが、相撲部屋の親方達は、皆それら不合理や非能率に耐えて現在に地位に到達したのである。自分も耐えてきたのだから、後進の力士達だって耐えられないはずはないと、つい考えてしまう。力士たちも、出世すれば協会の役員になって将来は安泰だと思うから、協会幹部にたてつくことはない。

日本相撲協会は共済組織であるが為に、今回の朝青龍事件のような問題が起きると、機能不全に陥ってしまう。協会の指導部を構成する理事達は、朝青龍に寛大な態度を取りたいと考えている。ようやく二横綱対決時代に入り、相撲人気が盛り返し始めているときに、朝青龍を廃業させたくないからだ。だが、中小の相撲部屋の親方達は、営業政策上朝青龍を甘やかしてきた理事達に批判的だったから、朝青龍への厳罰主義を譲らないでいる。

もし、相撲協会が純粋な収益企業なら協会上層部の意見がそのまま通るに違いない。だが、協会は廃業した力士達の共済組織だから、下部の一般役員の意見も尊重しなければならない。朝青龍問題で明快な態度を打ち出せないでいるところに、相撲協会の特質があらわれている。

テレビを見ていたら、相撲はスポーツと思うか、文化と思うかという世論調査をやっていた。71%が相撲は文化だと答えていた。これでは、相撲協会は旧態依然のまま続いて行くことになりそうである。