甘口辛口

新聞小説の書き方

2008/3/4(火) 午後 11:30

<新聞小説の書き方>

高峰秀子のエッセーを読んでいて、驚いたことがある。

加齢による物忘れについて書かれたエッセーだった。それによると彼女は夫のためにコーヒーをわかすべく毎朝台所に立つのを常としていたが、ある朝、台所で自分が何のために台所に来たのか分からなくなったというのだ。

高峰秀子のような大女優が、世間的には自分より格下の夫のために、自ら台所に立つということからして不思議だった。いや、それ以前に高峰家に家政婦あるいはお手伝いさんがいないらしいことが不思議だったのである。彼女は松竹映画会社の看板女優で、松竹の大作映画には必ずと言っていいくらい顔を出していたのだから、これまでに莫大な主演料を稼いでいたはずなのだ。

それにこのエッセーを書いたときの彼女の年齢は、まだ、60代だったのである。とにかく私は驚いて、自分もいずれは、と前途を危ぶむような気持ちになったものだ。しかし、今のところは大丈夫らしいなと思っているうちに、自分にも老化現象が現れていることに気づいたのである。

それは、新聞小説の読み方が変わったことだった。
自宅でとっている「朝日新聞」・「信濃毎日新聞」には、それぞれ新聞小説が載っている。前者には二本の小説、後者には一本の小説が載っているから、毎日三つの小説を読むことになる。昔は、この三本の新聞小説を面白くても、面白くなくても一応全部に目を通していたのが、次第に選択して読むようになり、時には三本の小説すべてを読まない日も続くようになっていたのだ。

新聞小説というのは、毎日こま切れの状態で提供されるから、前日の部分と今日の部分が頭の中でつながってくれないと、話が分からなくなる。ところが、新聞小説には、うまく繋がってくれるものと、そうでないものがあるのである。

大別すると、ストリーには、単線型・複線型・交錯型の三つがあり、単線型の小説は叙述が最初から最後まで主人公に寄り添っているタイプだ。これだと読者は主人公に感情移入しておけば、ボートに乗って川を流れるようにジ・エンドまで運んでいってもらえる。宮尾登美子の新聞小説に人気が集まるのは、彼女が何時でも単線型の作品を書いているからだ。

単線型の小説は、すらすら読めるから若い世代にも、老人にも歓迎される。だが、問題はあまり内容が平明にすぎるために、後に残るものが少ないことなのである。そこで、もう少し複雑な味わいを出そうとして主役格の登場人物を増やすと複線型の小説になる。そして、さらに複雑な味わいを出そうとして、主役群と脇役群が絡み合って競合する作品を書くと交錯型の小説になるのだ。

私は、交錯型の長編小説を好み、退職後はその代表的なジャンルである推理小説を愛読したものだった。その頃は、どんなに手の混んだ構成の新聞小説を読んでも、単純すぎるような気がして流して読んでいたのだが、70代に入るとそうはいかなくなった。新しい登場人物、新しい場面が次々に出てきたりすると、昔と違って、それらのパーツを頭の中で組みたてるのに努力を要するようになってきたのだ。

やがて、複線型の小説さえ敬遠するようになって来た。けれども、「家族小説」だけは、その例外だった。家族をテーマにした小説は、家族それぞれの役割や相互関係が制度的に決まっているから、一人一人の登場人物を父・母・子というような既製の枠組に押し込んで読んで行けば混乱することもないのである。子供たちの名前も、作者が長男を「賢一」次男を「順二」という具合に命名してくれれば、よけいに人物の関係がわかりやすくなる。

そして、その家族小説がハッピーエンドで終わるのではなく、家族離散という悲劇的な結末で終わってくれると、印象が一段と深くなるのだ。集まっては散り、散って孤愁を味わうのが人生の実相だからだ。

その意味で記憶に残っているのが、朝日新聞に連載されていた佐藤愛子の「凪の風景」だった。以前に校長をやっていた祖父、現在銀行員をしている父親、そしてその子供という三世代の家族が平和に暮らしているところからはじまったストーリーは、物語の進行とともに家族が少しずつ崩壊して最後にバラバラに分解してしまう。この作品には、「人生における凪の時間は僅かの間しか続かない」という厳しい現実が描かれているから、読者の記憶に残るのだ。

古山高麗雄の「狼が来たぞ」は、日本経済新聞に連載された新聞小説である。
これも幸福な家族の崩壊を描いた「家族小説」なのだ。父親は従業員一万名に近い大企業の営業部長で、重役に昇進するのを目前に控えており、長男は東大を出て有名企業に就職し、次男も東大に入学、末子の娘は慶応大学を目指して受験勉強中という人も羨むしあわせな一家が作品の舞台である。

小説が半分ほど進行したところで長男が突然失踪する。長男はなぜ失踪したのか、今どこにいるのか、作品が終わるまで明らかにされない。終末に近いところで、父親は会社を辞めて自分で事業を始めるが、結局失敗し、娘の慶応大学合格も望み薄になる。こんなふうに、一家のすべてが狂い始めたところで、小説は終わり読者の胸に重いものを残すのだ。

私は新聞小説の読み方が変わったことで、自らの老化を悟ったのだが、もし、このことが一般化できるものなら、新聞社も連載小説の内容を再検討すべきではなかろうか。新聞の読者が年々高齢化していくことを考慮して、新聞社は新聞の活字を大きくしている。新聞社は、これに加えて連載小説も単線型のものを多くするように心がけるべきではないか。複線型の小説を載せる場合にも、家族小説のようなものを選ぶべきではないか。

作家も、この辺の事情を頭に置いて作品を書いたらいいと思う。今や新聞小説で作家が野心的な実験を試みるような時代は終わったのである。