甘口辛口

死刑囚と結婚する女(その1)

2009/10/14(水) 午前 9:09


                       (上段−若き日の永山則夫)
                        (下段−獄中の永山則夫)

<死刑囚と結婚する女>


時々、新聞などで死刑囚と結婚する女性の記事を読むことがある。そんな時に、問題の女性は人道的な気持や同情から、あえて獄中の男性と結婚したのではないかと思っていた。だが、今度ETV特集で、「死刑囚 永山則夫」という番組を見ていたら、そんな認識を改めざるを得なかった。永山則夫と結婚した和美という女性は、人道的な気持からではなく、もっとギリギリの心境から結婚に踏み切ったのである。

永山則夫の著書「無知の涙」がベストセラーになったときに、私は同書を少しだけ読んだが、あまり感心しなかった。それが尾を引いて、以後、永山について関心を失い、彼が三度の裁判で一度は無期懲役になっていたことや、獄中結婚していたことを知らずにいたのだ。

TVを見ていて、永山の生育環境について何も知らないでいたことに気づいた。さらにインターネットで調べてみると、永山則夫は言語道断といっていいほどの悲惨な環境に育っているのである。ここが永山問題のポイントだったのだ。

彼は、リンゴ剪定師の子として北海道の網走に生まれた。8人兄姉の7番目の子供だったが、家にはこのほかにもう一人の子供がいた。長男が高校生だった頃に女友達を妊娠させたので、生まれてきた子を家で引き取って育てていたのである。一方、長女は精神に異常を来して、網走の精神病院に入院していた。

父親はどうしようもない極道者で、バクチの金がなくなると、一家が明日食べる米まで持ち出して金に換えるというような男だった。母親は夫を殺すことも考えたが思い止まり、二人の女児と長男が女に生ませた孫を連れて実家のある青森の小さな町に移った。この時、母親の一行を駅で見送った永山則夫は、当時5才だった。則夫が、「かあちゃん、おらも連れてって」と泣きながら列車を追いかけたという哀切な話が残っている。

置き去りにされた4人の兄姉弟は、自力で生きていくしかなかった。姉は新聞配達、兄たちは鉄屑拾い、則夫は港で魚くずを拾って帰るというような暮らしを続けているうちに、見かねた近所の人の通報で福祉事務所が仲に入って、4人の子供は青森の母のところに送られることになる。6畳二間のボロ家で、母と子7人の生活が始まった。

母は一家の生活を支えるために、リンゴの訪問販売をしていた。朝リンゴを背負って家を出て、帰りは暗くなってからだったから、家には子供たちだけになる。注目すべきは、母親不在の家の中で、兄たちがよってたかって則夫に暴力を加え、彼を徹底的にいじめたことだった。そのため、彼は北海道の姉に救いを求めて、青函連絡船で函館に渡ったりしている。

小学校から、中学校にかけて、則夫は頻繁に家出をしている。万引きをする癖もついた。母や学校の担任教師は、家出をして遠い他郷にいる彼を迎えに行ったり、万引をして捕まった彼の身柄を警察に引き取りに行かなければならなかった。則夫が家にもどると、兄たちのリンチが待っていた。学校に行けば 級友から家出常習者、万引常習者としてイジメの標的になった。

中学を卒業した則夫は、集団就職で東京に出ている。東京の職場では、まじめな働きぶりが認められて、支店をまかされたりしたこともあったが、どうしても一つの職場に定着できなかった。そこで彼は職を変えて各地に転々と移り住み、挙げ句の果てに国外脱出を計画して二度まで密航を実行している。無断で外国船に乗り込んで発見され、日本に送り返されることをくりかえしたのだ。

15才で東京に出て、19才で連続射殺犯になるまでの間、則夫は住む場所と仕事を目まぐるしいほどに変えている。そして、この間に何度となく自殺未遂を繰り返しているのだ。彼が何とか一カ所に落ち着いたのは、皮肉にも逮捕されて留置場に放り込まれてからだった。そこで彼は本を読み、手記を書き始める。彼の書き綴ったノートはたちまち10冊にもなった。元々、彼は頭の良い少年だったのである。

永山則夫が獄中で貪るように本を読み、痛恨の過去を振り返って手記を書いているという噂が広がると、本にすることを勧める出版社が現れた。こうして獄中手記「無知の涙」が世に現れることになる。本は爆発的に売れてベストセラーになり、印税は、1,158万円にもなった。

永山則夫の「無知の涙」を読んで感銘を受けた読者の一人に、武田和夫がいる。

武田は全共闘の闘士として安田講堂に立てこもった東大法学部の学生だった。闘争が終熄を迎え、仲間たちが次々に復学してからも、彼は民衆と共に生きることを選び、大学を中退して山谷に住み込んで日雇い労働をしていた。彼は「無知の涙」を読み、小学校も中学校もまともに出ていない男が、獄中で自分自身を教育し、弱肉強食の資本主義社会を告発するに至ったことに感動したのである。

彼は暇を見つけて刑務所に通い、則夫への差し入れと面会を続けた。則夫が「階級に目覚めた」のには、武田のリードが大きく貢献している。

武田が則夫を階級意識に目覚めさせたとしたら、則夫を人間として目覚めさせたのは和美という女性だった。彼女は、「無知の涙」を読んで、自分も則夫と同じ「捨てられた子」であり、二人は同類だと思ったのだ。

和美は日本人の女を母とし、フィリピン人の男を父として沖縄で生まれた。だが、父がフィリピンに帰ってしまったので、母は生まれてきた和美を役所に届けないまま仕事を続け、やがて和美を祖母に預けてアメリカ人と結婚して渡米してしまった。このため、彼女は戸籍を持たない無国籍人間として生きることになったのである。

彼女には、にがい思い出があった。和美は、街で混血児を援助する国際福祉事務所の看板を見て、自分も給付金を受けられるかもしれないと思い、事務所に問い合わせてみると、白人との混血児は(日に?)10ドル、黒人との混血児は5ドル、フィリピン人との混血児は3ドルだといわれた。

「私は3ドルの女なのか」──和美は激しい怒りを何かにぶつけたかった。一番憎かったのは母だったが、母を憎み通すことは不可能だったから、怒りを社会に振り向け、「いつか見ていろ」と思った。彼女は自分の怒りの感情は、ピストルで4人を射殺した則夫の気持ちと同じではないかと思った。私には、育ててくれたばあちゃんがいたから思い止まったが、則夫にはそういうブレーキがなかったから、突っ走ってしまったのだ。

和美は19才になって、養父がアメリカに帰国することになったので一緒に渡米する。そして日系人が経営する会社のOLになったが、上司との関係に疲れて睡眠薬自殺をはかり危うく助かっている。こういう経歴を持った和美が、永山則夫を自分の同類だと感じたのは自然なことだった。

和美はアメリカから獄中の則夫に宛てて手紙を書いた。すぐ、彼からの返事が届いた。和美の気持ちはたちまち燃え上がり、アメリカで則夫を支援する署名活動をはじめた。二人の間で手紙の交換が続いているうちに、和美の感情は抜き差しならぬものになっていった。彼女は、ついにこんな手紙を書いた。

「私が生きて行く上で、あなたがどうしても必要です。私は日本に行きます。私と結婚して下さい」

則夫からは、彼女をたしなめる返事が来た。

「和美はまだ若いから、結婚などすれば、必ずあとで後悔することになります。俺は俺の道を進みます。和美も和美の道を進んでほしい」

第一審で則夫には死刑の判決が出ていた。和美は則夫を一人で死なせることは出来ないと思った。それで日本に飛び、武田和夫や支援者の立ち会いの下で、刑務所の面会室で結婚式を挙げたのだった。

(つづく)