甘口辛口

「黒い部屋の夫」というブログ(その4)

2009/11/9(月) 午後 5:49

 (新築の家)

<「黒い部屋の夫」というブログ(その4)>


「携帯とパソコンは禁止です」という夫の通告は、妻の自粛を求める文言で、それ以上の意味はないとエリは思っていた。だが、ドメインを所持し、自前のサーバーで自宅のパソコン全体を管理している夫は、その特権的な立場を利用してエリには無断で彼女のパスワードを変更してしまったのだ。こうなれば、もうエリはゲームも出来ないし、メール機能も使えなくなる。夫の無法行為はとどまるところを知らず、エリのパソコンに保存されていたアドレス帳も写真もすべて勝手に削除してしまっていた。これでは彼女はもう学生時代の友達とも通信出来なくなる。エリが外部と接触出来ないようにするため、夫はエリのパソコン内のデータを回復不能のレベルまで根こそぎ抹消してしまったのである。

エリの心の中で、何かがプツンと切れた。

彼女は夫との繋がりがすべて断たれ、一瞬にして夫から解放されたと感じた。エリはためらう気持をかなぐり捨て、離婚へ向けて走り出したのだった。そうと決まれば、自分の気持を隠しておく必要はない。彼女は離婚の意志を、義母にも職場の仲間にも告げた。夫に話すのを後回しにしたのは、相手がこわかったからだった。

義母から事情を聞いて義父も驚き、エリと話し合いの場を持つことになった。だが、義父は問題をそれほど重大なものとは考えていなかった。世間によくある夫婦喧嘩に過ぎず、そのうちにエリの不満も収まるものと見ているようだった。彼は、息子に親子三人で暮らして行けるだけの金を渡してあるのだから、離婚にまで発展する筈はないと楽観しているのだ。

エリは義父母の反応を見て、やはり自分で夫に直談判するしかないと覚悟を決めた。数日後、彼女は勇気を出して、パソコンに向かっている夫に声をかけた。

「パパ、話があります」

夫が振り向いたのを見たら、何故か緊張が抜けた。エリはその場に正座して、「離婚、させて下さい」と夫に頭を下げた。そういった瞬間に、ぽろぽろと涙がこぼれた。夫は意外にも静かな口調で、「辛く、なってしまったんだね」と言ってくれた。

「はい……ごめんなさい。至らなくて、支えきれなくて・・・・」
「ううん、エリちゃんはよくやってくれてた。誰が何と言っても、エリちゃんは頑張って たよ。実は俺、ずっと ビクビクしながら過ごしてた。いつエリちゃんに離婚を言われ るかと怖かったよ。エリちゃん、去年あたりから少し様子がおかしかったから。でも、 俺には、どうにも出来なかった」

夫は覚悟していたらしく、取り乱した様子を見せなかった。後で知ったのだが、夫は父親に呼ばれ、エリが離婚を望んでいることを聞かされていたのである。

夫が穏やかな表情で話を聞いてくれたので、エリはほっとして風呂に入った。入浴していると、また涙が出てきた。

(離婚──あれだけ望んでいた事態だが、何と悲しい出来事だろうか。私はこんな悲しい結末を目指して、今まで頑張ってきたのだろうか)

翌日は日曜日だった。休みを利用して、義父母と息子夫婦併せて四人で離婚問題について話し合うことになった。義父は相変わらず、「離婚は早い」という意見を変えなかったが、エリは夫には裏切られたような気がした。彼は昨夜の態度を一変させ、父親の意見に同調して、「離婚などしたくない」と言い張りはじめたのだ。そして「エリちゃんは、親の愛情を受けて育っていないから、自分の子供に温かく接することが出来ない」などと妙なことを言い出すのである。

結局、その日の四者会談は何の結論も出ないまま、うやむやのうちに終わった。しかし、翌日に思いもよらない事件が起きたのである。

翌日の月曜日に、エリは何時までも起きてこない夫をマンションに残して出社した。一日の勤務を終えて、クルマを取りに義父母の家に行くと(エリは通勤に使う自分のクルマを義父母の家に置かせて貰っていた)、義母が出てきて、「今朝、息子が暴れて・・・・」と事件を知らせてくれたのだ。

事件は、その日、エリと娘がマンションを出た後で起きた。夫は起きるなり、家電やらパソコンやらを片っ端から床に投げ出し、家具をなぎ倒して暴れ始めたのである。そのうちに彼は自分で自分が怖くなって、父親に助けを求めたらしかった。父が駆けつけて息子をなだめている間に、夫は救急車を呼び出して、自分をかかりつけのクリニックまで運ばせた。夫はそこで鎮静剤を打たれ、今は眠っているという。

義母の話によると、主治医が夫を迎えに来るように言っているというので、エリは急いでクリニックに向かった。医者は、夫が、「夜更けに妻のところに男から電話がかかってくる」とか、「妻は自分との性生活を拒否している」と語っていたと告げ、エリに対して、「ご主人は今が大事な時期だから、あまり心配をかけないように」と注意した。夫は相変わらず、自分に都合の良いことばかりを主治医に語っているようだった。

──夫は入院することになった。

エリと義母は、それぞれ一日おきに面会に出かけ、夫の面倒を見ることになった。エリは、夫からパソコンの仕事を頼まれることが多かったから、帰宅して彼のパソコンに向かうことが増えた。エリは、夫のパソコンを操作しているうちに、夫が有料チャットに加入して、若いチャットレディーと頻繁に交信していたことを知るようになった。

親しくなったチャットレディーから恋愛の相談を受けて、夫はこんなことを言っていた。

 「バツイチだから参考にならないかもよ。今の妻とも、
 妻の親に無理矢理結婚させられたようなもんだし。やっ
 ぱり自分の希望じゃないってのはダメだねー。結局今の
 妻にも、前のと同じような苦しみを味あわされているよ。
君は幸せになってね」

病院に通っていると、夫を担当する医師が変更になり、エリは三人目の担当医になる女医の助言を受けることになった。これまでの担当医は、患者の味方になって、エリにいろいろ注文をつけていたが、この女医は違っていた。彼女は言うのである。

「私はご主人をうつ病だとは思っていませんよ」
 
夫がうつ病でないとしたら、何なのだろう。自宅で夫を暴れさせたものの本体は、何なのだろうか。医師は、それについてこんなふうに説明するのだ。

 「色〜んな患者さんがいますけど、ご主人みたいに嬉々
 として、意気揚々と、入院生活をエンジョイしている人
 はいません」

 「ご主人は、精神がすごく幼くて弱い。子供のように甘
 え、我も強い。力のない子供ならそれで良いけど、実力
 行使をする時だけ大人の力を持っていることを自覚して
 使ってくるから扱いが難しいのです」

「黒い部屋の夫」の巻末には、精神科医の香山リカが感想を載せている。香山も、最近、ニュータイプのうつ病患者が増えて来ていると指摘する。彼らは、「会社や家族に申し訳ない」という自責感に乏しく、他人を恨む傾向が強い。なかには、「病気なんだから、休んで当然」と開き直って、自分の権利を主張する患者さえいると語っている。

──夫が退院してマンションに戻って来た。

夫が自宅に戻り、夫婦二人が生活を共にすることになれば、否でも応でも、話は離婚問題に触れざるを得なくなる。

夫は、不毛な話し合いを続けた末に、「俺はエリちゃんが将来、絶対に再婚しないと誓えるなら、別れてあげてもいいんだ」と言って、離婚協議書案なるものを作成してエリに示した。それによると子供の親権はエリにあり、夫は養育費を毎月3万円負担することになっていた。月三万の養育費というのは、世間並の金額だからいいとして、慰謝料の部分がエリには納得できなかった。エリは慰謝料として30万円を夫に支払うことになっているのだ。感情的な面からいえば、エリは自分の方こそ慰謝料を貰う権利があると思っていたのである。

夫婦が離婚協議書の相談をしているときに、二人の関係を心配した義父母が話をしたいからと夫婦に声をかけてきた。四人が実家に顔を揃えたところで義父が話を切り出した。

「どうだ、少しは進展したか?」

すると、夫がまだ決着を見ていない離婚協議書を義父に手渡したので、エリはああと思った。義父は協議書に目を通して、「エリさんが慰謝料を払うのは、ちょっとおかしいんじゃないか」と言うと、夫はそれでいいんだと押し返す。夫婦の感情が激してきて、義父母の前で、声を荒げて非難し合うというような情けない場面もあった。結局、離婚問題は、又もや、うやむやのうちに終わってしまった。

しかし、エリと夫が別居することだけは決まった。夫がマンションを引き払って、両親の家に移ることになったのである。九年ほどつづいた二人の同居生活は、ついに終わりの時を迎えたのだった。

(つづく)