甘口辛口

岡部伊都子の抵抗精神(その1)

2009/12/22(火) 午後 5:14

<岡部伊都子の抵抗精神>


岡部伊都子について、とんでもない思い違いをしていた。

彼女は、白州正子と同様に金と暇に恵まれた上流夫人で、体制派の「文化人」との幅広い交友をバックに、著作家としての活躍の場を広げていた───と思っていたのだ。事実、彼女のエッセーや随筆はあちこちの新聞・雑誌に切れ目なく掲載されていたのである。何しろ30歳で本格的に書き始めたという遅咲きの文筆家だったのに、彼女は累計130冊もの本を書きあげて出版している。この数字だけでもその文運の隆盛ぶりが知られようというものだ。

そうした先入観念があったので、岡部伊都子の書いたものをこれまで読んだことがなかった。しかし、NHKの「知る楽」という番組が彼女を取り上げたことを知ってチャンネルを合わせてみたら、岡部伊都子は上流の夫人ではなかったし、体制側の女流作家などでもなく、離婚後、母との生活を維持するために懸命に原稿を書いていたという事実が判明した。また、彼女は体制派どころか、権力批判を続けたため、有力出版社からクレームをつけられ、原稿の掲載を拒否されたほどの「反体制派」作家だったのである。

岡部伊都子は私とほぼ同年齢で、婚約者を戦場で失っている。その点で彼女は、「戦争被害者」なのである。その岡部が、テレビの前で、「私は被害者ではありません。加害者です。<加害の女>なんです。私は悪い女なんです」と切々と訴えるのを聞き、私は事の意外さに呆然とするばかりだった。

「知る楽」は四回続きで岡部を取り上げていて、そのうちの一回分を見逃してしまったけれども、テレビで見た限りでは彼女は筋の一本通った女だった。その生き方をもっと深く知りたくなるような魅力を備えた女流作家だったのである。

そこで、彼女の「遺言のつもりで」という自伝を読んでみた(この本は口述筆記による自伝で、副題が「伊都子一生語り下ろし」となっている)。

岡部伊都子がテレビで、自分は被害者なのではなく、「加害の女」なのだと断定したのは、婚約者の木村邦夫が戦争に反対していたのに、それをたしなめて彼を戦争に送り出したからだ。

木村邦夫は同じ小学校に通っていて、一学年上の生徒だったが、その頃から伊都子は彼にあこがれ、密かに愛情を育てていたのだった。その彼が召集されて戦争に赴く前に、最後の別れを告げるため伊都子の家を訪れてきたのである。木村は彼女の部屋で二人だけになったとき、思いもよらないことを口にしたのだ。

「自分はこの戦争には反対なんだ。この戦争は間違っていると思う。こんな戦争で死にたくはないよ。天皇陛下のためになんかに、死にたくないんだ」といってから、付け加えた、「君のためなら死ねるけれどね」

木村は誰にもいえないでいた思いを、戦場に旅立つ前に最愛の女性にだけ打ち明けたのだ。これに対しして伊都子は、相手をたしなめるようにこういったのである。

「わたしだったら、喜んで死ぬけれど」

岡部伊都子は、自伝の中で、次のように弁解している。

<だけど、わたしには、その言葉の意味がわからなんだ。わたしは「死なんならん、死なんならん」と思い込んでいましたからね。そう言われて育った、死ぬ覚悟だけして育ったような子だったでしょ。「天皇陛下のために死ね、死ね」言われて育った。町内会でも、学校でも、そうやった。学校ではいわゆる、「散るさくら、残るさくらも散るさくら」喜んで死ねという教育を受けていて、邦夫さんが言うたことの意味がわからへなんだ。戦争が間違っているなんて、それまでそんなこと聞いたことない(「遺言のつもりで」)>

そして婚約者の死後に、彼女は相手がマルキストだったことを知るのだ。

<なんであの時代に、邦夫さんはあんなことが言えたんかな。ほんとに長いこと、そのことの意味がわからへなんだけど、彼は弟さんに、
 「自分が去んだら、本棚を調べて始末しておいてくれ」
と言うていたそうです。

弟さんが、邦夫さんが戦地へ行ったあと、本棚を調べたら、二重に並んでいて、表にでている本は、誰がみてもいい普通の本だったけれど、後ろのほ−には、マルクス主義の本やら思想の本、当時アカと言われていた本が並んでいたそうです。伏字の××××のいっぱい付いている本(「遺言のつもりで」)>

ほかにも彼女は婚約者の気持ちに応えることが出来なかったことがあった。彼は伊都子を抱き上げて、部屋の中をぐるっと一回りした後で言った。

「なにもかも、すませて征(い)きたい」

伊都子にはそれが何のことか分からなかった。相手が伊都子の体を求めていることを理解できないままに、彼女は男の言葉を聞き流してしまったのである。

出征した木村邦夫は、中国北部に送られ現地守備隊の小隊長になった。周辺には現地住民が編成した抗日ゲリラ部隊があり、ある日、そのゲリラ部隊と木村の小隊が偶然正面衝突したことがあった。反戦思想を抱いていた木村も、とっさに相手側の隊長を軍刀で斬り殺してしまっている。

その後、木村は戦争末期に沖縄に送られ、そこで米軍の艦砲射撃を受け、両足を吹き飛ばされる。これが最後と覚悟した木村邦夫は、ピストルで自決している。

婚約者に死なれてから、伊都子は、「天皇のためには死ねないが、君のためなら死ねる」という彼の言葉を何度も思い出した。そして、その度に彼女は、(私はあのとき、彼と心中すべきだったのだ)と思うのだった。「私は加害の女だ」という述懐の中には、あのとき木村と一緒に死ぬべきだったのにという女の嘆きが込められているのである。

岡部伊都子が戦後、一貫して反戦平和のために戦うようになるのは、マルキストだった婚約者が彼女の心の中に生きていたからだった。彼女は亡き婚約者のためにも、戦争を煽るものたちの前から、一歩も退くわけにはいかなかったのである。

伊都子は筆一本で生きるようになってからは、差別されている人々の側に立って論陣を張ってきている。ハンセン病患者や沖縄県民、被差別部落民や朝鮮人のために、脅迫に屈せず、体をはって戦い続けて来たのだ。

彼女が行動に出る端緒は、読者からの手紙や出版物から得た情報によることが多い。

生まれたときから病弱だった伊都子は、病床で過ごす時間が長かった。2歳の時に急性中耳炎になり、右の耳が聞こえなくなって以来、扁桃腺を手術したり結核になったり、病気の絶え間がなかった。彼女は女学校に入学したものの結核のため二年修了で退学している。父はタイル問屋を大阪で営み、金回りがよかったから、帝塚山に家を借りて伊都子を転地させてくれた。当時、結核の治療法は安静療法しかなかったから、伊都子は一日中病床で安静を守りながら本を読んで暮らした。

彼女にとって生きるとは、本を読むことだった。彼女は、喜びも悲しみも岩波文庫を中心にする書物から得ていたのである。こうした境遇を彼女は不幸だとは思っていない。世俗的なマイナスも、個人の魂にとってはプラスになる───これが伊都子の信念なのであった。

岡部伊都子は文筆業者になってから、読者の手紙を読んで感動すると、すぐに家を飛び出して相手に会いに出かける。彼女は吉田美枝子というハンセン病患者から手紙をもらったとき、彼女の暮らしている大島の療養所に出かけた。そして患者を家族から引き離す「らい予防法」の廃止運動を展開し始めるのだ。

また、岡部伊都子は読書を通して未知の世界に触れたりすると、ためらうことなくその現場に飛び込むのである。

岩波新書で「追われゆく坑夫たち」を読んで、これまで自分が日本の炭坑事情について何も知らなかったことに気づいた伊都子は、直ちに筑豊に住む「追われゆく坑夫たち」の著者を訪ね、その案内で極小炭坑に入ってみるのだ。筑豊には、坑夫が一人で石炭を掘っている個人所有の炭坑がいくつもあるのである。こういう具合に全国各地を走り回る自分の行動を、彼女は「巡礼」と呼んでいる。

彼女が反戦平和のために戦う背景には、婚約者の死という個人的な事情があった。同様に、彼女が差別と戦い続ける背景にも、別の個人的な事情があるのである。
(写真は岡部伊都子:NHKテレビより)

(つづく)