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いかにして自分を肯定するか(その3)

2010/4/18(日) 午後 6:49

いかにして自分を肯定するか(その3)


毎度の事ながら、日本人の下僕根性には呆れる他はない。日本国内のどの地区も、米軍の基地を受け入れることに強い拒否反応を示しているのだから、政府は日米安保条約を改定して普天間基地を含む日本国内の米軍基地すべての退去を要求すればいいのである。

それが出来ないのは、戦後、アメリカの意のままに行動してきた日本の下僕根性が、いまだに続いているからだろう。そして、日本政府の下僕根性を探って行くと、日本人の多くが自分を肯定出来ないでいるという事実にぶつかるのである。では、なぜ日本人は自分を肯定出来ないのだろうか。

教育心理学の方では、生徒一人一人の要求水準を適正な高さに保つことの必要性が説かれている。自分の実力よりも、高すぎる要求や低すぎる要求に基づいて行動すると、劣等感にとらわれたり、無気力に陥ったりする。こうなれば、自己を正当に肯定出来なくなり、簡単に強者の前にひざまづく人間になる。

日本人が「恥の文化」のなかにあるとしたら、それは超自我が世俗的価値観を取り込んで、自分に対して高すぎる要求水準を突きつけるからだ。私は、この間まで「かがみ」というネット・ストーカーに付きまとわれて往生したが、この人物によると、私はジジイであり、しがない教員であり、しかもヒラ教員でしかなく、学歴もたいしたことはないらしいから、恥ずべき人間なのだという。そんな人間に麻生太郎のような高官を批判する資格はないというのだ。

これが世俗的人間の価値観なのである。私が「かかみ」氏に一人前の人間として認められるためには、東大を出て、大企業に就職し、せめて役員レベルまで昇進しなければならないことになる。

信念を持って生きている人間は、乞食をしても平然としていられる。だが、世俗的価値観を超自我の中に取り込んでしまった人間にとっては、至る所にハードルがあり、そのハードルを越えられなければ、その一つ一つが恥になって撥ね返ってきて、自己評価を下げてしまうのだ。

繰り返すけれども、職業や財産、学歴や教養とかは、人間の原質を覆う外皮に過ぎない。それらをはぎ取ってしまえば、人はすべて共通の人間性を持つ同じ人間になる。イエスも佛陀も、われわれと何等変わりのない同じ人間になるのである。

ホイットマンは、唱っている。

私は動物たらの仲間になっていっしょに暮すことができたらと思う。

動物たちはあんなに静かで満ち足りているのだ

私はたたずんで長い長い間、彼らを見まもる

彼らは自分の境遇にうめいたりこぼしたりしない

不満を持つものもなく、所有欲につかれて狂いまわるものもいない

他の者の前にひざまずくものも、数千年前に生きた同類に向って
         ひざまずくものもいない

全地上のどこにも、身分のよいものも、不幸なものもいはしない

自分という一個の個人を取り出して、肯定しようとしてもうまくいかない。しかし外面の虚飾を削ぎ落とした人間全体に対してなら、肯定可能になる。自分を、その肯定可能な人間の一人として考えれば、つまり全体の中にある一個の凡我としてとらえたなら、自分を肯定出来るようになるのだ。

私たちが、ありのままの人間を肯定し、凡愚としての自己を肯定するとき、はじめて下僕意識から脱却できるのである。