甘口辛口

芥川賞「乙女の密告」は覚醒の物語

2010/9/16(木) 午後 9:32

芥川賞「乙女の密告」は覚醒の物語

芥川賞入賞作品を読むために、文芸春秋九月号を発売直後に購入してきたが、なにやかと取り紛れているうちに一ヶ月余が経過し、問題の作品を読むのが昨日になってしまった。近頃、録画したTV番組なども、そのまま放っておいて、再生するのはずっと後になるというようなことが続いている。老人は、こんな風にして時代から取り残されていくのである。

「乙女の密告」は、平凡な女子学生が覚醒する物語だった。

著者の赤染晶子はこの作品で、擬似的な世界に生きている女子学生がいかにしてその欺罔の世界から脱出して「事実唯真」の世界にたどり着くかを描こうとしている。

著者は、女子学生一般をこんな風に見ていたのである。

「真実とは乙女にとって禁断の果実だった。それに手を伸ばした途端、乙女は冷静になる。自らの本当の姿を知って恥じ入ることになる。・・・・乙女とは夢見る存在なのだ。乙女の目はこの世にあるものに向けられていない。乙女はうっとりと空を見上げて語る。乙女の言葉は決して真実を語らない。乙女は美しいメタファを愛する」

「乙女というのはそういうものだ。ひそひそ噂ばかりして、真実を確かめようともしない。勇気がないのではない。乙女達は真実を必要としないのだ。そんなものに見向きもしないのだ」

疑似的な世界、ロマンスの世界に執着する女子学生達は、文学書を開いても、間違った読み方をする。

京都の外国語大学に学ぶ女子学生も、「アンネの日記」を読み、アンネ・フランクを一本のバラのように可憐な少女として眺めてしまうのだ。そして、その可憐で美しいバラが、不条理な暴力の犠牲になって、この世から失われてしまうことに涙する。女子学生が愛しているのは、本当のアンネ・フランクではなく、アンネのイミテーションなのである。

そんな状況を打破すべく、バッハマン教授が登場する。彼は、学生らにイミテーションではない真実の世界を知らしめようとして、ドイツ語の暗唱課題に「アンネの日記」を選ぶのだ。

自身もユダヤ人であるバッハマン教授は、ナチスに殺されたアンネを悼む一方で、彼女の態度に疑問を感じている。教授によれば、ユダヤ人というのは、何処の国の国民になっても、当該国家の国籍だけでなく、その上にユダヤ人というレッテルを貼られる不幸な人種だった。だからといって、ユダヤ人は、ユダヤ人に生まれたわが身の不幸を嘆いてはならない。人々から差別されるのは、神から特別な任務を与えられている証拠と考え、使命感を抱いて生きなければならないのである。

アンネは最初、教授が望んでいたような生き方をしていたのだが、やがてユダヤ人であることに苦痛を感じるようになり、「脱ユダヤ人」を志向するようになった。そして、戦争が終わったら、ユダヤ人というレッテル抜きの完璧なオランダ人になりたいと考えるようになった。

バッハマン教授から見ると、こういうアンネは敗北者なのである。彼が「アンネの日記」を暗唱課題として選んだのは、そのことを日本人女子学生に知らしめるためだったのだ。

作者によれば、女子学生は、仲間同士で噂話を交換するために「トイレさへ群れをなして行く生き物」であった。トイレは、彼女らにとって聖地であり、連れだって聖地に赴くことを通じてグループが生まれる。

教授は、ゼミの女子学生らを、こういうややこしい人間関係から救い出すために、「すみれ組」と「黒ばら組」の二つに分けるようなこともする。

バッハマン教授は、学生一人一人に「いちご大福」が好きか、ウイスキーが好きか尋ね、前者なら「すみれ組」、後者なら「黒ばら組」に分けたのだ。すると、それぞれの組に「女王様」が生まれ、女王様は他のメンバーから麗子様、百合子様と「様」付きで呼ばれるようになった。集団生活を送る若い女性達の間には、自然発生的にいくつものグループが生まれ、そのそれぞれにグループを支配する小権力者が出現する。

バッハマン教授から長文暗唱という過酷なノルマを課された学生達は、グループの女王を中心に努力を重ねる。すると、多くの学生が暗唱の途中でつまずいて、先へ進めなくなるという現象が起きる。暗唱が特定の場所まで来ると、記憶喪失の状態になって、覚えてきたはずの文章を思い出すことが出来なくなるのである。その部分を突き抜けてしまえば、後は万事スムースに行くことが分かっているけれども、何回練習しても同じところに来ると必ず突っかかって先へ進めなくなる。

この作品のヒロインであるみか子は、グループの女王麗子様から教えられる。

<「みか子はいつも同じとこで忘れるんやね」
「はい・…・」
「それがみか子の一番大事な言葉なんやよ。それがスピーチの醍醐味なんよ。スピーチでは自分の一番大事な言葉に出会えるねん。それは忘れるっていう作業でしか出会えへん言葉やねん。その言葉はみか子の一生の宝物やよ」>

「乙女の密告」という作品は、比喩と象徴を積み重ねて構築された哲学的な小説なのだが、では、作者はこの挿話で、何を言おうとしているのだろうか。

教授から暗唱することを強制され、学生らがテキストを丸暗記しなければならなくなるということは、これまで学生達が学校や社会から押しつけられた生き方を機械的に反復していた事実を現している。

だが、彼女らはやがて型にはまった生き方に疑問を感じ、個性的な生き方をしたいと思うようになる。けれども、周囲からの圧力があまりにも強いために、いくらあがいても生き方を切り替えることが出来ない。みか子は、悟りを求める禅僧のように苦心惨憺しているうちに、ヒントを見つける。みか子は、立ち直ることに成功するのだ。

それでは、乙女の密告という挿話は、何を意味しているのだろうか。

アンネ・フランクは、隠れ家を密告されて逮捕され命を落とすのだが、みか子も仲間に密告されて、バッハマン教授との関係を皆に疑われることになるのだ。作者は密告の問題を重視しているらしく、作品の末尾でこれに関する説明をしている。作者は、縷々言葉を連ねて説明するのだが、彼女の思い入れがあまり強すぎて、読者には作者が何を言おうとしているのかよく分からないのだ。

人が密告されることを恐れるのは、人に知られたくない秘密があるからである。つまり、人に知られたくない真実を隠し持っているからなのだ。だから、人は他人に密告されて初めて本来の自己の姿を現すことになる。アンネは、完璧なオランダ人になることを望んだが、それは自分以外の他者になることだった。彼女は、むしろ自分で自分を密告してユダヤ人であるという真実を守るべきだったのである。

「アンネの日記」の読者も、アンネが密告されはしないかと、ハラハラしながら読み進むべきではない。アンネが、「私はユダヤ人です」と胸を張って宣告することをこそ期待して読むべきなのだ── 作者は密告の挿話を通して、こう言っているように思われるのである。

<石原慎太郎の選後評>

この作品はあまり読みやすいものではないけれども、選考委員の多くは高い評点を与えている。ところが、石原慎太郎だけが、何とも愚かしい選後評を記しているのだ。

「こんな作品を読んで、一体誰が、己の人生に反映して、いかなる感動を覚えるものだろうか。アクチュアルなものはどこにもない」

石原の文章自体が悪文で、これが昔作家だった男の書いたものとは到底思えないのである。

「己の人生に反映して、いかなる感動を覚えるものだろうか」

こんな寝言のような文章は、今時の高校生だって書かないのだ。

石原は、「アクチュアルなものがない」とこの作品に因縁をつけている。彼は高度経済成長期におけるバカ学生の行状を描いた「太陽の季節」で登場した。彼はこの処女作をアクチュアルな作品だと自負しているらしいが、自惚れるのも、いい加減にすることだ。石原慎太郎は、昔も今も終始一貫、読者受け狙いの際物ばかりを書いてきた三流作家であり、彼が芥川賞の選考委員になったのも、出版社の営業政策からなのだ。

確かな事実がある──同じ芥川作品でも、「乙女の密告」は「太陽の季節」より、段違いに優れているということである。