甘口辛口

二人の独身者(その3)

2011/1/8(土) 午後 1:20

  (久保川きせ子)

二人の独身者(その3)

*中里介山*

中里介山は、27歳になったとき、勤務していた都新聞社の仲間に呼びかけて、「独身会」というサークルを作った。そして、「独身」という同人雑誌まで発行したが、ほどなく発禁処分を受けたため、この方はやむなく廃刊にしている。

尾崎秀樹は、その著「中里介山」の中で、中里が生涯独身を通したのは、「世人が妻子のために払う労力を世の中のために振り向けたい」という念願からだと解説している。彼は生涯を通して「世の中のため」に 努力しているから、結婚しなかったのはそのためだとという説には説得力がある。

だが、彼には、ホイットマンのように放浪を求める性癖があったのである。ホイットマンは、「ローファー」(放浪者)として生涯を過ごした詩人だった。彼はその放浪の過程で、宇宙万物は同根であるという思想に到達している。

中里も、作家生活に入ってからの三分の一を旅で過ごしたと言われるほど旅行を好んでいた。そして、彼はホイットマンと同じように、万有宇宙と一体化する思想を抱くようになっている。ホイットマンとの類似は、まだまだある。ホイットマンは、小学校すら途中退学したほどで、学歴らしいものをほとんど持っていなかった。彼は、新聞社の見習い植字工をしながら本を読む習慣を身につけたが、中里も当時の4年制小学校を卒業後、三年制の高等科に進んだだけだから、今で言えば中学一年生程度の学歴しか持っていなかった。中里も、ホイットマンのように独学で和・漢・洋の教養を身につけたのだ。

しかし中里介山自身にいわせると、彼の独身主義は、幼少時代の家庭環境から来ているというのだ。

<そもそも私をして斯く家庭嫌ひにならしめた動機といふものは、自分の天性も性癖もありませうけれども、幼少時代の余りに苛酷なる家庭を見せつけられたからで・・・・生涯斯様な苦を負ふて人生に再行路をつゞけるに堪へられない、出来るだけ之を脱却し、退避しなければならぬといふ観念が牢乎として植付けられてゐたのかも知れません>。

中里介山は、東京郊外の多摩川のほとり、三多磨といわれる地方の豊かな農家に生まれた。ところが、父親というのが百姓仕事の嫌いな怠け者で、たまに畑に出るときにも着流しに角帯という、まるで呉服屋の番頭のような格好で出かける始末だった。その上、賭将棋で家の財産を食いつぶしてしまったから、家のは年中、祖父母や両親の争いで紛糾していた。若い頃の中里は、家庭不和の元凶である父親をドストエフスキーの小説に出てくるような性格破綻者だと考えて激しく憎んでいた(父親の死後になると、「父ほど不幸な人は、世に二人とあるまい」と思うようになる)。

中里介山が書物の世界に目覚めたのは、高等科を卒業する前後に小学校の校長佐々黙柳の家に寄宿するようになってからだった。佐々校長は中里の才能を惜しんで、短期間ではあったが、彼を自宅に引き取って勉強させてくれたのである。この佐々校長は生涯独身を貫いた古武士風の人物で、自宅にある蔵書を彼に自由に読ませてくれた。中里は校長のために炊事や洗濯をしてやりながら、夢中で「平家物語」や「源氏物語」などを読みふけった。

中里が独身生活に憧れるようになったのは、いざこざの絶えない実家に比べて、佐々校長の暮らしぶりが如何にもさわやかに見えたからだった。もし彼が校長宅に寄宿することがなかったら、世俗の生活に疑問を持つこともなかったろうと思われる。彼は多感な少年期に世の常の家族とは全く異なる知的でストイックな独身者の生活を垣間見て、雷に打たれたようなショックを受けたのだ。以後、彼は佐々校長のような簡素でさわやかな独身生活を夢見るようになる。

小学校の高等科を卒業した中里は、上京して東京在住の従兄の家に身を寄せ、電話交換手になっている。だが、電話交換手に女子が採用されるようになると、彼は二年とはたたないうちに馘首されてしまう。

免職になった中里のところに、多磨の実家から帰郷を促す便りが届いた。父が吐血して倒れたというのだ。実家の求めに応じて、中里介山が帰郷したのは十五歳のときで、彼を待ち構えていたのは、三人の妹をふくむ一家八人の家族だった。祖父は二年前に亡くなっていたが、祖母は健在で、二女キクはまだ十歳に満たず、三女ケイは満五歳、四女ミヨはやっと三歳になったばかりだった。

中里は家族を支えるために母校の西多摩小学校の代用教員になった。彼は勤務の傍ら正教員の資格を取るために講習会に通い、四年後の19歳の時に本科正教員の資格を得ている。教員としての彼の給料は、始め4円50銭だったが、正教員になると16円になった。だが、給料が高くなっても、彼の生活は惨憺たるものだった。父とのいさかいが絶えなかったからである。

彼の日記には、「父が怒った」「又々父怒る」「父が怒って始末におえない。大いに衝突して、其れが為に一日欠勤」というような文字が並び、怒り狂った父が、中里の大事にしているナショナル五級のリーダーと数冊の雑誌を引き裂き、火中に投じたことなどが書かれている。中には、こんな一節もある。

「生徒には馬鹿にされる。頭痛はする。父には怒られる。銭は一文もなし」

日記に「生徒には馬鹿にされ」とあるけれども、生徒間での中里の受けはなかなか良かった。

彼と生徒たちの年齢差は僅か十歳ほどしかなかったから、生徒を上から押さえつけようとしても効果はなかった。それで、生徒が授業に飽きて来たとみると、彼は『平家物語』や『三国志』から子供たちの喜びそうな物語を選んで話してやった。コロンブスやリンカーンの逸話を話してやることもあった。ときには、彼は自分でひねり出した創作物語を生徒たちに聞かせたりした。

こんな悪知恵を働かせることもあった、習字の時間などに机の上に紙と筆を置かせて、授業中のように見せかけておいて、お得意の創作物語などを話してやるのだ。不意に校長などが通りかかってガラス障子ごしに中を覗いても、生徒はしーんと中里の話を聞いている。校長の佐々などは、すっかり感心して、新米の教師のくせに生徒をここまで統制できるとは見事なものだと褒めてくれた。

教師としてさまざまな工夫を凝らすだけでなく、中里は、村民にキリスト教を普及させようとしている。それには、彼が久保川きせ子という学校の同僚に恋心を抱き始めたことが背景になっていた。

中里はすでに小学校高等科時代から、「少年夜学会」というサークルを作り仲間を集めてて活動していたが、母校の教師になってからは、この「少年夜学会」を発展させるために努力していた。彼はそれと平行して「青年義会」を組織して地域の若者たちに対する啓蒙活動にも乗り出していた。彼がきせ子の下宿している屋敷をキリスト教講義所にして、ここに村民を集めようとしたのも、これら一連の社会活動の一つだったが、彼が熱心に布教につとめた本当の理由はきせ子に惹かれていたからだった。彼は電話交換手時代にキリスト教にちょっと触れた程度で、まだクリスチャンといえるような段階になっていなかったのである。 

中里が久保川きせ子と同僚になったとき、彼女は中里より7歳年長で23歳だった。きせ子は背のすらっとした美女で、医者を目指している婚約者がいた。この時、中里はまだ16歳だったから、心の中できせ子に憧れているだけで、とても彼女への愛を打ち明ける状況にはなかったのだ。この時期に、彼は印象的な俳句を作っている。

  大空に星一つあり恋の闇

小学校の教員という立場を忘れて、キリスト教の布教に走り回っている中里介山を苦々しい目で眺めている郡の視学がいた。この並木鹿之助という男は、中里の庇護者である佐々校長が生きているうちは手が出せなかったが、佐々が亡くなると早速中里に山一つ越えた五日市の小学校に転勤することを命じた。

中里介山は、これを思想弾圧と取って、赴任して半年もたたないうちに辞表を出し、ふるさとの多磨を捨ててしまうのだ。

(つづく)