甘口辛口

二人の独身者(その5)

2011/1/16(日) 午後 9:04

  (大正10年頃の中里介山)

二人の独身者(その5)

*独身者の運命*

中里介山は、小学校を卒業する前後に佐々校長の家に引き取られ、暫く生活を共にした。その時、中里は佐々校長のストイックな暮らしぶりを見て、自分も将来校長のような簡素な独身生活を送りたいと考えるようになった。彼は子供たちを集めて「隣人学園」を開いたときにも、「克己」を重視した指導方針を打ち出している。

中里は28歳で「独身会」を組織し、その宣言通り生涯独身を通した。彼の独身生活は、佐々校長譲りの簡素でストイックなものだった。「大菩薩峠」がベストセラーになって多額の印税を手にしながら、彼の住まいは六畳間一間しかなかったし、次に建築した家も六畳間二間だけだった。食事も菜食を中心にしたごく質素なもので、こんな話が残っている。

後輩の作家平山蘆江が先輩の中里をもてなすために自宅に招き、妻手製の天ぶらをふるまったことがある。蘆江としては精一杯のサービスだったが、介山は護厳な態度で、蘆江に告げた。

「僕は菜食主義者です。今日はせっかくのお心づくしだから頂戴しますが、今後もし御馳走して下さるようなときには、どうか精進揚げだけに願います」

内心貧しい料理しか出せなくてびくびくしていた蘆江は、介山のこの言葉に救われたように思い、あらためて中里介山の人物を見直したのだった。

しかし、独身主義者の落ち着く先は、ストイシズムではなくて「遊戯三昧」なのである。

独身者は、家族持ちの所帯主に比べて、時間的にも経済的にも有利になる。彼らは、世俗の親たちが家族のためにあれこれと心配りをしているときに、自分一人の面倒を見ればいいだけだから、時間と金に余裕が生まれる。もし、彼らが計画的に暮らしたら、仕事もうまく行くだろうし、経済的にも豊かになるはずなのだ。

ところが、独身者の多くがそうはならないで、場合によればホームレスになってしまうのである。家庭人は思わぬ収入があったりすれば、家族の将来のために使わないで残しておくけれども、独身者は金を残す家族がいないので生きているうちに全部使ってしまうのだ。

独身者は、生きているうちに時間と金を自分のためだけに使ってしまうのだが、その使い方は、当人の人間性によって異なり、知的レベルが低ければバクチや女道楽などに走るし、レベルが高ければ、永井荷風や中里介山のような使い方をすることになる。

中里の言い方を借りれば、意図して独身を選ぶものは、「制度の外で生きようとする」人間である。だから、好きなことだけをして、その他の雑事は捨てて顧みない。

中里は、子供の頃から「少年夜学会」を始め、実に多くの社会的事業に手を染めてきた。だが、事業が停滞したり、彼自身の心境が変化すると、それらの活動を何の未練もなく放棄して、肩書きなしのゼロに戻ってしまう。無飾のただの「ひと」になるのである。

中里は、人間関係においても、先輩との関係を永続させることがなかった。一時期、師事していた幸徳秋水や内村鑑三との関係も、彼の側から切ってしまって、最終的には孤立の道を選んでいる。彼は多くの事業をスタートさせたが、どこか醒めているところがあって、自らの行う社会的な営為を一種の「遊戯」と見ていた。

こう見てくると、「大菩薩峠」が物語としての一貫性を持っていない理由も呑み込めてくる。彼は作品の各パートをその時々の気分に従って遊戯行為として書いたのだ。彼は、「大菩薩峠」20巻の後書きにこう書いている。

<『大菩薩峠』は一先づこれで完結といふ事になりました。……この一種異様なる作物───作者はこれを呼んで何処までも戯作といひたいのです、作者は遊戯といふことを大乗の極と信じ、すべての宗教も───道徳も、芸術も、此処へ来なければ徹底したものと思ふことが出来ないと信じてゐます。すべての喜怒哀楽が遊戯相であって、戯作の本旨はその遊戯相の表を描き裏をうつすものであると信じてゐます>。

彼は、作品の内的な関連を無視して、感興の赴くままに多種多様な登場人物を創作し、彼らに型破りの動きをさせる。こんな書き方をしていたら、本来なら読者に愛想を尽かされて、原稿の注文も来なくなるところだが、読者は彼を見捨てることがなかった。桑原武夫によれば、それは中里が日本人独自のシャーマン的感性を探り当てたからだという。

桑原は、日本文化には西欧的な層、アンチ西欧的な層、シャーマン的な層という三つの層があるというのである。中里が机竜之助を創造して以来、時代小説の主役に机と同型の丹下左膳だの眠狂四郎などが登場したし、中里が脇役に裏宿の七兵衛という俊足の盗賊を登場させてから、後世の時代小説はこれと同型の盗賊や掏摸を脇役として登場させるようになった。中里が日本人の意識に潜む古層を掘り出したために、後輩の作家らが彼を追尾するようになったのだ。

しかしながら、中里介山の生涯を追尋して行くと、最後になって彼に裏切られたような気持ちになる。

日露戦争を厳しい態度で否定した中里は、日中戦争にも反対している。彼は戦争を強行する政府に対抗する砦として、広い畑を併せ持つ「西隣村塾」をスタートさせている。彼は、日本国家が圧力を加えてきても、畑で自給自足しつつ飽くまで闘いつづけるという不退転の決意を示したのだ。

昭和13年には、自費出版の著書「百姓弥之助の話」の中に出征兵士を送る行列を見て、
   
     「生き葬ひ!」

とつぶやいたことを書き込んでいる。彼は兵士を送る行列を、葬式の行列だと感じていたのである。

その中里が、日本がアメリカに宣戦布告をしたと知って欣喜雀躍するのである。昭和十六年十二月八日の開戦の詔勅に接して中里は、日記にこういう勇ましい漢詩を書き付けた。

  日本神武国
  顕正破邪軍
  粛然如深海
  乾坤雷発鼓

おまけに彼は、これを大書して海軍省に送ろうとしている。太平洋戦争が始まったとき、自由主義系の作家たちには、これまでの主張を覆して皇軍の戦果を絶賛するものが多かったが、日露戦争の頃から戦争に反対していた作家で中里介山のように態度を変えたものはほとんどなかった。単身で生きている独身者は、足手まといになる係累を持たないだけに、反戦論から好戦論へと身軽に転向できるのである。

これは「37日間漂流船長」の武智三繁さんにも、あてはまる。一日一食で暮らしていたこの人は、中里介山よりもはるかに清潔でストイックな生き方をしていたと思われるが、本を出したり、ラジオに出演したりして臨時収入が増えてくると、とたんにラブホテルを転々とする女狂いの生活にのめり込んでしまう。

中里介山、武智三繁という二人の独身者の生き方を眺めると、独身者の生活と対比される結婚生活が人に何をもたらすか少しばかり理解されてくるのだ。