甘口辛口

本を「自炊」する(その1)

2011/1/19(水) 午後 8:27

本を「自炊」する(その1)


「本を自炊する」と言われても、多くの人は何のことだか分からないのではなかろうか。私もはじめは、この言葉を知らないまま、本を自炊していたのだが、近頃になってようやく、今、自分のやっていることが本の自炊といわれるものであることを知ったのだ。

「本を自炊する」とは、自力で本を電子書籍化することなのである。

私はかなり以前に、本をバラバラにして、両面コピー可能なスキャナでページを読み込み、読み込んだページをパソコン上で拡大して読んでいた。老眼が進行して、こういうやり方で文字を拡大しないと、細かな活字で印刷された本を読むことが出来なくなっていたのだ。私はそのことを、「パソコンで本を読む」という題にして、拙文を当ブログにアップしている。

だが、その作業をもう止めてしまっていたのである。電子化するための作業に、あまりにも時間がかかるからだ。まず、本をバラバラにして一ページずつ切り離す作業が大変で、一冊の本を解体するのに20〜30分はかかる。仕事を終えると、机の周りは紙の切りくずでいっぱいになるのである。

スキャナにかける場合にも、一枚一枚ページを給紙して行かねばならない。そうやって時間と手数をかけて本を電子化し、やっとこさパソコンのモニターで読む頃になると、本を読む気が薄れているのだ。不思議なことだった。苦心して本を電子化したのだから、喜び勇んで本に取り組むかと思うとさにあらず、手数をかけた分だけ読書意欲が減退しているのだ。

というわけで、本の自炊を長いこと中断していたら、昨年からキンドルだ、ガラパゴスだと電子書籍リーダーの話題が持ち上がり、日本でも国産のリーダーが売り出されることになった。私が、個人向けの紙の裁断機が売り出されていることを知ったのはその頃だった。

3万円ほどで売られている裁断機を取り寄せて使用してみたら、手作業で20〜30分かかっていた本の裁断が2〜3分で済んでしまう。この2〜3分は、本の表紙を取り除くための時間で、裁断自体は一挙動で完了するのである。

裁断機で切りそろえられた本のページを両面コピー機にかける場合にも、一枚一枚給紙する必要はなかった。100枚ほどずつ紙を束にして「差し込み口」に入れてやれば、コピー機はみるみるうちに自動的に両面コピーを完了してくれる。かくて、一冊の本を電子書籍化するのに要する時間は、従来の十分の一以下になった。

本を電子書籍化する以前は、一ページを二段組みにして印刷してある本を敬遠して、書棚に並べて置くだけだったが、このやり方なら、それらを全部電子化してパソコンで読むことが可能になる。

(よろしい、どんどん電子書籍化してやるぞ)

私は、まず書棚にある二段組みの本の中からイギリスの現代文学に関する本を選び出して電子書籍化した。サマセット・モーム、グレアム・グリーン、ローレンスなどの著書である。最初にイギリス文学を選んだのには、訳(わけ)があった。

半年ほど前になるだろうか、NHKハイビジョンでアガサ・クリスティー紹介の二時間番組を放映していた。それを見ているうちに、彼女の本を読んでみたくなった。それで、「アクロイド殺し」と「春にして君を離れ」の二冊を注文して読んでみたら、「アクロイド殺し」よりも「春にして君を離れ」の方が、ずっと面白かったのだ。昔だったら、興味の感じ方が逆になったに違いないのに、今やミステリーよりもイギリス女の偽善を暴いた家庭小説(?)の方が面白かったのである。

「春にして」の主人公は有名弁護士の妻で、ジョーンという女だが、中東の某都市に嫁いでいる娘を訪ねて旅をする途中、女子名門校聖アン女学院で学んでいた頃の級友に出会う。この級友は家柄も立派、成績も優秀、おまけにまれに見るほどの美貌の持ち主で学友皆のアイドルになっていたのだ。だが、久しぶりに邂逅した彼女は、薄汚れた中年女になっていた。そして、60歳に見えるほど老けている。

ジョーンは、相手がこれほどまでに落ちぶれた理由を噂で聞き知っていた。彼女は女学院を出た後に、妻のある獣医と恋愛して同棲し、その関係が破綻してから保険会社に勤める安サラリーマンと結婚して現在に至っているのだった。ジョーンが崇拝してやまなかった相手は、人生に失敗して負け犬になっているのだ。にもかかわらず、相手は思い通り生きてきたためか至極平然として後悔している様子を微塵も見せなかった。

ジョーンは相手と別れ、娘を訪ねた後に帰途につくが、鉄道事故のため、砂漠の真ん中の小駅で足留めされる。そこで過ごした数日間に、彼女は落ちぶれた級友と比較して我が身の人生を顧みるのだ。

彼女は夫からも娘たちからも愛されていると自信を持っていた。だが、荒涼たる砂漠を眺めて日を送るうちに、夫が自分以外の女性を愛していることに思い当たり、子供たちも自分を敬遠していたことを思い出す。彼女は、それらの事実を感じていながら何も気づいていないように自分を誤魔化していたのだ。彼女がはるばると会いに行った娘も、母親から離れたいばかりに年若くして結婚し、中東まで逃げ出していたのだ。

アガサ・クリスティーは、ジョーンの自惚れと偽善を冷静な筆致で暴いて行く。そして心改めた彼女が、もっと謙虚に生きようと誓いながら帰宅して家族と生活をともにするところまで描く。だが、果たして彼女は再生することに成功しただろうか。この結末はイギリスの小説らしく、ひねりのきいたものになっている。

「春にして君を離れ」を読み終えてから、私は(これがイギリスの小説だ)と思った。

他国の作家たちは、登場人物を臨界状況に追い込んで、そこで彼らの見せる異常な行動や狂気を描こうとする。だが、イギリスの作家は、リアルに現実を描くのだ。登場人物に異常な人間は少なく、本質的に常識人が揃っているから、老人も落ち着いて読み進んで行くことが出来るのである。年を取ると、あまりファナティックな小説を読むのは心臓によくないのだ。

とはいっても、これまでに読んだイギリスの現代小説を思い起こしてみるに、作品の中の情景が断片的に浮かんでくるだけで、話の大筋を思い出すことが出来ないのだ。

サマセット・モームの「人間の絆」で思い出すのは、主人公が最後に素朴な少女と結ばれるところだけだったし、グレアム・グリーンの「情事の終わり」では、ヒロインが爆撃を受けた恋人を生かしてくれたら、彼との情事を終わりにしますと神に誓う場面だけなのだ。

私がイギリスの現代小説を電子書籍化すること思い立ったのは、アガサ・クリスティーの小説が導火線になって、昔読んだイギリスの文学作品を読み返えしてみたくなったからだ。

パソコンで電子書籍化した「人間の絆」を読んでみたら、字体を大きくしたために滑るように快適にページを繰って行ける。若い頃と同じスピードで本を読めるのである。意外だったのは、主人公がミルドレッドという利己的な女に振り回される場面が延々と続いていることだった。彼女の存在は、これまで完全に記憶から抜け落ちていたのだ。

「月と6ペンス」についても、同じことが言えた。この作品の主人公はタヒチ島でハンセン病になって無惨な死を遂げ、そのことで作品全体のバランスが取れているのに、私はこの最後の部分を忘れていたのである。

グレアム・グリーンの「情事の終わり」は、カトリック文学だった。この作品の全体が、神に誓うということが信者にとって何を意味するかを明らかにしようとしているのに、私はそうした問題意識を持たないままで本を読んでいたのだ。

(つづく)