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楽しきかな、人生

2012/2/16(木) 午後 0:25
楽しきかな、人生

森鴎外は、生きることを業苦と感じている人間だった。彼は、生涯を総括した晩年のエッセーに、「自分は生まれてこない方がよかった」という悲痛な言葉を書き残している。

にもかかわらず、彼ほど引退後の日々を楽しげに過ごしたものもいない。鴎外はたえず顔に穏やかな微笑を浮かべていた。孫のように幼い息子を連れて散歩するときには、「何でもない景色を楽しむようでないといけない」と言って、坂の途中で下駄を尻に敷いて、何時までも眼前の風景を眺めていた。読書に際しては、本を傷めないように紙の上方に指をやって慎重にページを繰るのが癖だった。

彼は底に深い悲哀を隠したまま、家族にも、身辺の本や家具のようなものにも、慈しみの目を向け、静かな後半生を送った。男性の場合、人生の達人と思われる面々は、いずれもこうした二重底の生涯を送っている。鴎外とそりが合わなかったが、幸田露伴の人生もそうだった。

しかし、女性は違っている。もっと単純明快なのである。

今日の朝日新聞を開いたら、読者からの投書欄(「声」欄)に75歳になる角田圭子という女性の文章が載っていた。書き出しは、こうなっている。

「脱サラの夫と喫茶店を始めて半世紀、3年前に夫を亡くし、娘と頑張って店を続けています」

夫が亡くなった以上、残された自分が頑張るしかないけれども、この人からは、そんな悲壮感は全く感じられない。彼女はその年まで健康で働けることに幸せを感じ、仕事を生きがいとも、趣味とも感じて働いている。だから、朝は、「今日も楽しい一日でありますように」とシャッターを上げることが出来るのである。

そういう彼女にとっては、この世に否定すべきものは何もない。

「最近の世の中は目まぐるしく、天変地異、不況の嵐と一寸先は分かりませんが、何が起きても全てよしと受け止められる強い心を持ちたいと願っています」

「何が起きても全てよしと受け止める」ような悟りの心境を持ちたいものだと、男たちは願っているが、この女性なら、それも不可能ではないかもしれない。この人は、死ぬことさえ肯定的に受け入れているのだ。

「あの世で夫や両親が待っていてくれると思うとうれしくて、これからも一生懸命生きて、再会の楽しみは最後の最後まで取っておきたいと思っています」

この人は今、声楽を習っていて、自分が死んだら録音しておいた彼女の歌を会場で流して貰って、それを聞きながら夫と両親の元へと旅立ちたいと願っている。

男性が、「楽しきかな、人生」というとき、その言葉ににがいものが混じるのは、どんな篤信の男性でも、来世を無条件に信じることが出来ないからだ。男は、元来リアリストなのである。だが、投書をしたこの75歳の女性の文章には、そうしたにがい要素が少しも混じっていない。彼女が来世を信じきっているためだ。

不可知の未来に対する単純明快な信仰、これこそが幸福に生きるためのキイかもしれない。