甘口辛口

ポリシーのある生活(3)

2012/4/20(金) 午後 7:09
ポリシーのある生活(3)

父は、結局、老人ホームで約二年間を過ごすことになった。

ホームにいる間に、父は一度だけ、「ここを出て、家に帰りたい」といったことがある。だが、次に会いに行ったときには、もうその話は出なかった。博嗣の方から、その話を切り出しても、「いや、そんな必要はないよ」と微笑むだけだった。でも、以前に家に帰りたいといっていましたよといっても、父は、「そんなことを言った覚えはないな、惚けたのかもしれない」というのだ。

それで博嗣は、父をホームに預けたままにして定期的に訪問することにした。

父は、次第に無口になっていった。何かを買ってきてくれと頼むこともない。そして、そのうちにほとんど口をきかないようになった。話しかけても、頷いたり、ああとか、いやとか、曖昧な受け答えをするだけだった。父は、もう、人に語りたいことがなくなったのである。

父がホームから病院に移ったのは、老衰が進行したからだ。遠方に住んでいる博嗣の妹は、二回、父の見舞いに来たが、二回目に来たときには、父は肺炎になって娘が来たことも分からなくなっていた。

やがて、担当の医師から、話があった──病人の体は酷く衰弱している。水や食物を充分に摂取していない。そのため点滴をしているのだが、このままでは、胃腸がほとんど機能しなくなる心配がある。直接流動食を喉から入れることもできる。喉に穴を開けてパイプを通す簡単な手術でそれができるようになる。だが、胃腸が働かなくなると体力はもう回復しないだろう。

医師が言いたいのは、このさきもっと事態が悪化した場合に、延命のために手を尽くすかどうか、ということだった。本人からは、もう生きる意志を伺うことができないから、家族が判断しなければならない段階に来ているというのだ。

博嗣は、自分としては、とにかく父が苦しまないようにお願いしたい、と答えた。そして、少し考えてから、無理な延命をするよりも、なるべく辛くないように、ゆっくりと休ませてあげたい、とつけ加えた。博嗣の妹も、涙を流しながら、私もそれが良いと思います、どうかよろしくお願いします、と言った。

延命措置を取ったとしても、死ぬのが少しさきになるだけである。博嗣兄妹は、そういう延命処置をせず、自然に眠らせてあげてほしい、と答えたのだ。兄妹は二人とも父親の気持ちが分かる子供だったから、父自身がきっとそう考えているだろうと確信できたのである。

父が死んだのは、八十三歳の誕生日を迎えて数日後だった。父は最後まで父らしい生きざまを示した。子供に対して、ありがとうなどとは言わなかったし、苦しいとか痛いといった弱音も一切口にしなかった。父は最後まで自分の筋を通したのである。

父の葬儀は、母のときと同様に、大勢を呼ばず、ひっそりと行うことにした。父は商売をしていたので、知らせれば百人以上集まることは確実だった。しかし、どこにも連絡をしないことにした。もともと入院をした当初、父は、入院したことは親戚には黙っているように指示していた。父の妹たちは、知らせたら余計な心配をするだろうし、こんなところへ来てもらってもしかたがない、彼女らと話などしたくはない、というのだ。

さらに、もしものことがあっても、葬式なんかしなくていい、誰にも知らせないで、もし聞かれたら、ええ、死にましたよ、と答えればそれで良いのだ、と言った。

その遺言には反するが、近い親戚にはさすがに黙っているわけにもいかない。結局、母のときと同じ葬儀屋にお願いすることにした。お経は挙げてもらったが、戒名はつけなかった。葬儀は、これ以上はないというほど質素なものになった。博嗣は喪主として、「父は野を行く哲人のような人でした」と挨拶した。

本人・森博嗣

森博嗣は、定年まで10年を残して53歳で、大学教授の職を辞している。

博嗣は、両親が死んだことで、自分は完全に自由になったと感じた。身が軽くなった思いがしたのである。仕事を辞めたことも、やはり解放感をもたらしてくれた。彼がそれまで辞職できないでいたのは何故だろうか。やめれば両親の期待にそむくと思ったのだろうか、それとも仕事が生きるために必要だと思い込んでいたのだろうか、ただなんとなく、それが一番安全で一番安心できたからなのだろうか。

退職してリラックスした気持ちで庭の落ち葉を拾っていたら、妻が近づいてきた。

<「ねえ、引っ越ししない?」と彼女は突然言った。
引越ってどこへ、ときき返すと、私は遠いところが良いな、と言う。
ああ、そうか、そういうことができるのだ、と博嗣は気づいた。彼女に言われるまで気づかなかったし、もしかしたら、妻もたった今、思いついたのかもしれない(「相田家のグットバイ」)>

彼は妻と相談して、移転先を彼の友達や妻の親戚の住んでいるイギリスに決め、夫婦でイギリスに渡った。現地で適当な借家を探すためだった。とりあえず、あちらで借家暮らしをして、そこに住んでみよう。駄目だったら、また引っ越せばいい、どうにもならなくなったら、その時は日本に帰ってくればいいのだ。

イギリスでの借家を決めると、森博嗣夫妻はいったん帰国した。そして渡英のための準備に取りかかった。イギリスに持って行く荷物は最小限に留め、残った家財は今は空き家になっている相田家に押し込んでおけばいい。最初はそう考えていたが、よく検討してみると、イギリスに滞在する期間がどれほどになるか分からない。

とすれば、留守中に相田家が台風や地震の被害を受けたり、漏電で火災になった時のことが心配になってくる。博嗣は両親の住んでいた相田家を取り壊して、そのあとを更地にすることを決断した。そうと決まれば、留守中に相田家に押し込んでおくつもりだった家具類は廃棄処分にした上で、相田家に残されている両親の調度や衣類、そして博嗣兄妹の成績品などを整理しなければならない。

相田家の整理が難航したのは、いろいろなところから母の隠していたへそくりが発見されたからだった。それらは総計350万円に達した。父の遺した骨董品も簡単に処分するわけにはいかなかった。刀剣のうちの一本は室町時代の名刀で、鑑定士によれば500万円の価値があるというのである。博嗣は、妹にも手伝ってもらって相田家の整理を終え、建物の取り壊しに取りかかった。解体工事には一週間の期間と、300万円の費用がかかった。
解体工事が完了すると、あとには整地された90坪の更地が残った。博嗣は、これを売りに出すことにして、不動産業者に処理をまかせた。

両親の死後、森博嗣は父母それぞれのための四十九日もしなかったし、墓も作らなかった。遺骨は海に撒いた。だが、彼はそういった儀式よりも、相田家を消し去ってやることの方が、親のためになると感じていた。

父は、おそらく、自分の建てた家を取り壊し、自分のものも妻のものも全部捨て去り、真っ白な綺麗な状態にして、この世を立ち去りたかったのではないだろうか。

生憎、父にはそれだけの体力がなかった。父は、老人ホームに入ることによってこの家から一旦離れ、そうすることで、この家を取り壊す決断ができるだろう、と考えたにちがいない。博嗣はそのことに気づいてからは、それを次第に確信するようになって行った。そういえば、父は冗談のように、この家をゴミにしたら、四トントラック何杯分くらいだろうか、というようなことを話していたことがある。

つまり相田家を消し去ることは、本来は両親がやるべきことだったのだ。だから、遺族がその遺志を尊重して、最後の後始末をしてやらなければならないのだ。こんなふうに考えたのは、博嗣の勝手な理屈かもしれなかった。だが、これは、世間の常識よりも優先する、父の筋であり彼自身の筋であった。

父の人生の前半は、自分の周りにいろいろなものを構築する時代だった。特に、その大半は物体ではなく理論だっただろう。そして、人生の後半では、その理論を否定し、物体を捨て、どんどん最初の無へと戻っていったのだ。

父の生涯は、余りにもいさぎよいものだったと博嗣は考える。父には、なにか手本があったのだろうか、それともあれは理屈から導いた彼独自の哲学だったのだろうかと、博嗣はいろいろ想像してみるのである。

(つづく)