甘口辛口

読書のための細い道(3)

2012/10/14(日) 午後 4:16
読書のための細い道(3)

加藤周一は、知性の人というよりは、情の人だった。89年の彼の生涯は、家族や友人に対する深い愛情によって支えられていたのだった。

彼は、母の死についてこう書いている。

<母が死んだとき、私は自分の内側が空虚になったように感じた。よろこびも悲しみも感ぜず、ただ全身に拡る疲れだけを感じ、しばらくの間、放心していた。葬式をほとんど覚えていないのは、周囲におこる何事にも関心を失っていたからだろう>

夜ひとりになると、加藤の目の前に母の顔や、母の言葉が、秩序なく蘇ってきた。すると、彼は、自分がそのすべてを失ってしまったこと、そのすべてが返らぬものになったということを、堪え難い苦痛と共に改めて感じる。加藤の世界からは、無限の愛情の中心が消えてなくなり、世界はもはや彼にとってどうなってもいいものになってしまったのである。

加藤は、自分の人生が母の死を境にして、前後に分かれてしまったように感じる。母が生きているうちは、世界には無条件の愛と信頼があった。が、母の死によってそれらは二度とあり得ないものになってしまったのだ。
加藤は、自分も胃ガンで死んだ母と同じように、ガンで死ぬことになるだろうと思った。そして、実際に母と同じ胃ガンで死んでいる。

「続・羊の歌」の最後の方に、「死別」という章が設けられている。これは長年親しくつきあってきた旧友を回想した文章が収められていて、読んでいると母を追慕した文章と同じような感銘を受ける。

<私たちは20年、ある意味で同じ道を歩んで、絶えず自分自身以外のものであろうとし、世界(と他人)を理解しようとし、それぞれ視野を拡大しながら、もの事の間に関連を求めようとしてきた>

という文章を読めば、加藤は友人を同志とも兄弟とも考えていたのである。

しかし、加藤周一は、単に愛の人だけに留まらなかった。人を切り捨てる冷酷に見える面もあった。彼の異性関係を見てみよう。

加藤周一の「羊の歌」は、(正)(続)の二冊になっているが、これを最初から読んで行くと、アレと思うことがある。この本は、羊の年に生まれ、羊のように温和な(?)著者の内面が、いかに形成されて行ったかを回顧した精神の発達史であり、自己形成史の筈だった。読者は、そのつもりで読んでいるのである。

だから、著者が両親からどのように躾けられたかを語る次のような文章を読めば、これが加藤周一の育った家庭であり、この要を得た表現法が加藤周一の文体なのだと感心する。

<家庭は子供の私にとっては、全く自己完結的な閉鎖的な世界であり、そこには充分に納得することのできる善悪の法則があり、悪を冒さなければどんな不幸の襲いかかる心配もなく、しかし悪を冒せば、その罰を免れることのできないところであった。私は、合理的な、したがって理解することのできる小さな世界のなかに生きていた。理解することのできないものは、その世界の外にあったのである>

そして、「羊の歌」を読み終わり、「続・羊の歌」を開いて暫くすると、<その女(ひと)のために私はしばしば京都へ行った>という文章が、いかにも唐突な感じで現れてくる。「その女」が加藤の恋人であることに間違いないのだが、彼女については、ひとりの子供を育てている未亡人であり、若くして死んだ夫が仏教学者だったと記されているだけで、加藤がその未亡人とどのようにして知り合ったのか、小学校に通っているという子供が男の子なのか女の子なのか、一切が分からない。

ただ、その女性が京都に生まれながら、家の外に出ることが少なく、その住む家はひっそりとして薄暗かったとあることから、読者は、彼女が老舗の箱入り娘で、夫と死別してから実家の離れで暮らしていたのかも知れないなどと想像することは出来る。

当時、東大医学部を卒業して東大病院医局の副手をしていた加藤周一は、フランス政府の半給費留学生として仏国に留学することになった。彼は恋人が、「行くな」といえば渡仏を断念するつもりだったが、相手が引き留めなかったのでフランスに渡り、パリ大学やキュリー研究所で血液学の研究しながら、暇を見つけては欧州の各地を「見物」して回る日々を過ごすことになる。ひとり旅を好む彼は、安宿から安宿へと移動しながらの見物だった。そんな記述が続くうちに、またもや、唐突に、<列車は中部欧州に向かい、・・・・ウイーンまで私を運んでゆくはずであった。そこでは、ひとりの娘が私を待っている>という文章が飛び出してくるのだ。

その娘とは、イタリアのフィレンツェで出会った。加藤はフィレンツェで、美術館から教会へ、教会から別の美術館へと憑かれたように歩き回ったが、そのとき、同じ道を同じはやされ歩いているオーストリアの娘と知り合い、彼女を愛するようになったのである。

このオーストリア娘についても、加藤は具体的な説明をしていない。

<彼女は小柄で、学生のように見えた。小さな写真機を持っていたが、それは日本人の旅行者が誇りをもって携えていた写真機にくらべれば、はるかに安いものにちがいなかった。額にかかる栗色の髪が、丘の上の風に動いていた>と、あるだけなのだ。

加藤は、その娘を愛するようになってから、自分は京都の女を愛していたのではなく、愛していると思っていたにすぎないことを、はっきりと自覚した。オーストリア娘への新しい愛は、彼を思いもよらない世界に導いて行ったのである。

3年間の海外生活を終えて帰国した加藤は、すぐさま、京都の女の家に出かけた。

加藤は、何のために急ぎ帰ってきたのか、その理由を相手に説明した。彼は京都の女を目の前に置いて、「自分は、あなたを愛していると思っていたが、ウイーン娘を愛してみたら、あなたと私の関係は真の愛から遠いものであることが判明した」と率直に告白したのだ。

加藤は、自分たちは、このまま別れる他ないのだとくり返し説明する。しかし、彼を待っていた女は承知しなかった。

「そんなことってあるかしら。こんなに待っていたのに」

加藤は同じ言葉をくり返し、同じ言葉を繰り返しながら自身を憎んでいた。

「不満な点があるのなら、いって頂戴」と女はいう。彼は、問題はそういうことではない、不満な点などは一つもないよと弁解しながら、自分が今のこの瞬間、ひとりの女の人生を破壊しつつあることを自覚していた。

「あなたは馬鹿ね、また同じことを繰り返すことになるでしょうに……」

彼女の言う通りだった。だが、真に誠実な生き方とは、本当に愛すべきものが現れたと知ったら、古いものを棄てることではないだろうか。そうだとすれば、相手が言うように、彼は同じことを繰り返すことになるかもしれない。しかし、それもやむを得ないことなのだ。

年譜を見ると、加藤周一はその後オーストリア娘と結婚し、その後、離婚して、合計三回の結婚をしている。

(つづく)